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2005年12月31日,nifty-serveを退会しました.複数のHPを立ち上げる際にniftyのサーバーも使っていて, そのまま長きにわたり…. 懐かしいIDも,非-実質となりながら過去へと落射していきました.
さて,私は『女王の教室』のDVDボックスを買って,年末年始はそれを見ながら涙にくれていた. 「女王」のテーゼは,反-戦後民主主義だと感じます. だれをも傷つけないという架空の自由と平等によって,たとえば 徒競走で順位をつけない,みんな一緒にゴール,という人間の本質を見誤った 安っぽいヒューマニズム. だけれども,この現代日本に,「それは違う」という「強いコトバ」は生き残っているのだろうか. あの物語のなかで,たとえば,重要なエピソードとして マヤは過去に自分の教え子をぼこぼこにして「再教育センター」に送られたとあり, その経緯を述べる節にこうある,
「…彼がわたしにこう云ったからよ.なぜ,ひとを殺してはいけないのか,って.」
その殺してはいけない理由を,マヤは非常にすぐれた,人間的な言葉で, つまり理性にかなった表現で理由付けしています.
この高度大衆社会と精神性の堕落傾向は30年前に三島が予感するまでもなく いわば私たちが時代とともに抱えなければならないアポリアでもあったろう. その時代性に対抗していくには…
あの主人公のマヤのように,睡眠を削りすべてを自己の信念のために傾けて 闘争し続けるしかないのかもしれない.
それでもなお,…時代のなかであるものは変わるかもしれず, またあるものは変わらないままなのだろう. そして三島は自決した,また対比させれば,石原慎太郎は行動し続けてもいる.
…
そんな戦後的な閉塞感へのアンチ・テーゼが強く感じられます.
ドラマ自体が,とても困難な状況で作られているとも思います. 子供たちは,半年の撮影(オーデションを含めて)のうちに成長し 体型も変化していきます. そういう困難さの上に立ちながら, 主人公の少女が,とても丹念に描かれて,創造されていました. (インタビュー風景などを見ると,地の彼女と主人公は別物だとわかり, 演技というものに驚愕もする)
そんな幸福な作品でした.
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どうもご無沙汰しています。
『女王の教室』、[naif]さん、かなり気に入られたのですね。 僕は日記にも書きましたけど、ドラマとして見たのは最終回の最後の部分だけで、あとはドラマのあらすじを読んだだけなので評価を下すほど知らないのですが、なんとなく[naif]さんがはまった理由も納得できるような気がします。
テーゼが「反-戦後民主主義」というのは、必ずしも反対ではないのですが、もっと狭い範囲かなというのが僕の印象です。 戦後というよりもっと狭い、例えばここ5年くらいに対する批判と観た方が僕にはすっきりします。 日記にも書いた僕の小学生の頃なら特別なことではないように思ったというのも、そんな風に感じる理由の一つです。
スペシャル番組が今度あるようなので、時間があったら観てみようかなと思います。
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