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2006年4月前半
気がつけば今日から4月。今年ももう4分の1終わっていた。早い、早すぎる。
今日は昼前に起きて、ジーン・ウルフの『デス博士の島その他の物語』を読み終えて、あとはずっと感想を書いていた。バカみたい。
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噂のジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』を読み終えた。
読み終えるのに延べ十日かかった。年度末で飲み会続きだったのと、中短編集だったのも理由の一つなのだが(僕の場合小説の物語世界に入り込むまでにちょっと時間が必要で、中短編集は一つの物語を読み終えると次の話をすぐに続けて読めないのである)、ウルフがこんなにすごい作家だと理解するのに半分くらい読んでようやく気づいたからというのが一番大きな理由かもしれない。一番気に入っているのは、「死の島の博士」なのだが、この作品でさえ最後の数ページを読んで初めてすごいすごいと感心したのだった。すごいと思ってからは、かなり勢いがついてすぐに読み終えたのだが、一編ごとの内容を消化するために、なかなか次の作品に入れないという現象も強くなった。
ジーン・ウルフが『ケルベロス第五の首』で話題になってもう2年くらい経つのだろうか。気がついたら『デス博士の島その他の物語』が新刊で出ていた。「デス博士の島」という言葉からイメージするものが読書意欲をそそり、遅ればせながら読んでみたわけだ。タイトルから面白いというか、人を喰っているというか、変わっている。表題作の「デス博士の島その他の物語(The Island of Doctor Death and Other Stories)」の他の収録作は「アイランド博士の死(The Death of Dr. Island)」「死の島の博士(The Doctor of Death Island)」、それと「アメリカの七夜」「眼閃の奇蹟」である。タイトルがアナグラムになっている短編は、それぞれ単純な物語の続編ではない。「アイランド博士の死(The Death of Dr. Island)」は、「デス博士の島その他の物語(The Island of Doctor Death and Other Stories)」のタイトルだけではなくいろいろなものを裏返しにした別の物語なのである。
なんでそんなことをしようとしたかは、「まえがき」に書かれているので省略するが、その「まえがき」のおまけには、「島の博士の死(Death of the Island Doctor)」という4番目の掌編が書かれているから恐れ入る。「まえがき」におまけの短編を書くというのは、柳下毅一郎の解説によれば、「出版社によれば、誰もまえがきは読まないそうだ」から前書きを読んでいる「選ばれた少数派」への特別な贈り物らしい。そしてそのささやかな贈り物もなかなかすばらしい掌編だった。
目次で収録作品名を見て、これらのアナグラムシリーズの生まれたいきさつと「島の博士の死」を読んで、ジーン・ウルフはなかなか面白そうだと思ったけれど、まだこの時点ではそんなにすごいとは思ってなかった。本の紹介としては、これで十分だと思うので、あとは作品の内容について触れる。これ以上の紹介は不要だし、むしろ内容について語り合いたいじゃない。ここでは語り合うとはいかなくて、一方的に感想を書くだけだけど。
「デス博士の島その他の物語」
デス博士の物語を読んでいる少年と物語の引用が、いつの間にか少年の現実に物語が混じり始めるという物語。大人たちの中で退屈なとき、空想の物語に引かれるのは、自分も読書大好き少年だったからよくわかる気持ちだ。少年の現実と空想の混ざった物語が、ほんとうに単なる空想なのか疑問に思わせる出来事が多少あり、不思議な感じを出している。断片的にしか出てこない「デス博士」の物語も、安っぽいB級SF映画的な世界がなんとも魅力的だが、これはSFというよりノスタルジックな話だと思っていた。ところが最後の一行でいきなりメタフィクション化してしまう。
でもまだこの作品を読んだ時点では、ウルフのすごさには気づいてなかった。
「アイランド博士の死」
「デス博士の島その他の物語」の裏返しというのだけれど、そんな単純な裏返しじゃない。もうまったく別の物語で、舞台の背景がわかるまでにも時間がかかる。どこか何島の島の物語であるかのように始まるが、「デス博士の島その他の物語」とは打って変わって、舞台は未来、場所は地球ですらない。アイランド博士は、島そのものであり、波の音を使って喋り、かもめの鳴き声を使って喋り、猿の鳴き声を通して喋る。
この島にほかにいるのは、少女とイグナシオという危険そうな男。彼らはなぜこの島にいるのか、この島は一体なんなのか、それらがだんだん判ってくるとともに、突然訪れるカタストロフ。破綻のようでいて、実は大団円でもあるという結末。
島=アイランド博士の正体、少女、イグナシオ、少年がなぜここにいたのか、少年の<めざめ>。いろんなことがわかったはずなのに、結局どういうことだったのかわからなくなってまた読み返してしまう。奥が深い。
「デス博士の島その他の物語」の裏返しだったはずなのに、あれっと思ってまた考える。
「死の島の博士」
「死の島」というが今度は言葉どおりの島ではない。終身刑の受刑者である博士が癌に侵され、治療できるまで冷凍冬眠する。目を覚ました彼は、未来の治療で死なない躰になっていた。死なない終身刑の受刑者が住む刑務所が死の島と例えられる。
この時代、本は読むものではなく、対話するものとなっている。ページを開くと本が喋るのだ。この発明をしたのが、主人公の受刑者の博士である。この発明にまつわる話など、最後の数ページがすごい。
本の中から抜け出し別の本の中に入ってしまう、キャラクタたち。その混乱を武器に、終身刑を無効にしようという取引をする博士。果たしてこの本の中からキャラクタが抜け出すのは事故なのか、博士の故意の謀略なのか。出所を待っていた昔の女が構えているのは嫉妬にかられて銃を構えているのか、単なるカメラなのか。
この数ページの後に続く結末は何通りも考えられる。直前まで、様々な面白いアイディアに感心しながら読んではいたのだが、この最後の数ページで本当に感心した。小説として完結していると思えるのだが、これだけ盛りだくさんのアイディアがちりばめられて、物語の続きがいろいろ考えられるまま終わってしまうなんて、もったいないと思った。これのエピソードを含む別の長編小説が書かれるべきだ、読みたいと思ったのだ。でも、この小説自体が尻切れトンボだとも、未完成だとも思わない。
たった一つの結末を提示することだってできるのだが、そうはせずにあえてここで終わっているのであって、たぶんジーン・ウルフにとってはこれ以外の結末はありえないんじゃないかと思えるのだ。いや、本当はさらにもっと書きたい結末があるけれど、その中の一つを選んだだけかもしれないが。
この結末を読んで今まで読んだ物語をちゃんと読みきれていないんじゃないかと思った。読書は文章の読解力とともに想像力を要求するが、ジーン・ウルフの小説はその想像力を最大限に発揮させることを要求してくる。要求してるのではなくて、読者に選択の余地を与えているといった方がいいのかもしれない。そんなわけで、小説は読み終わったのに読書は終わらないのである。
ということで、ようやくジーン・ウルフのすごさを感じ取った。こんなに読みでのある本(ページ数ではなく)って、久しぶりに読んだ気がした。
「アメリカの七夜」
ジーン・ウルフの小説は毎回語り口が違うが、仕掛けというか手法というか、小説全体の構成が凝っていることは理解した。「アメリカの七夜」は今度は日記形式であるが、これがただの日記であるわけがない。
あらすじを書いてしまうと意外と単純な話である。一通の手紙文があり、行方不明になった子息の日記を送る由書かれている。続くの本編はその子息ナダンの日記である。日記には近未来、ドラッグなどの影響なのか崩壊したアメリカ、今も残るアメリカ人たちは奇形化したり浮浪者となっていたり、怪物化してしまった人々もいるという悲惨なアメリカで過ごす七日間の出来事が書かれている。
だがそれだけじゃない。そもそも日記の書き手ナダンがすべて真実を書いているのかはわからない。ドラッグを菓子に染み込ませロシアンルーレット式に食べていく彼は幻覚を見ているかもしれない。訳者の柳下毅一郎の解説によれば、日記はタイトルの七夜には一夜足りないという。その一夜はドラッグの幻想で飛んでいるかもしれないというのだが、それも定かではない。書かれている日記のいずれかが幻覚なのかもしれないし、すべて正気であれば誰かが忍び込んだかもしれない形跡も現実ということになり、誰かがスパイしているということが現実になる。
そして、最後にはナダンの母親が日記を読み終えたあと、日記の筆跡が息子のものか問いかける。つまり、日記そのものが本物かどうかもわからないわけだ。
夢オチって最低のオチの一つとしてよく挙げられるが、夢オチがダメなのはそれまでの物語全体が全否定されてしまうようなパターンのときだと思う。夢かもしれない、でもそうでないかもしれないという余地が残されていなければ、夢オチとして成立していない。この「アメリカの七夜」の最後は、どこまで信じていいか判らない日記に、最後に駄目押しでさらに日記自体にも疑いがあるという、よくできた夢オチに似た終り方だと思う。
「デス博士の島その他の物語」も考えてみればこのパターンの変形かもしれない。
「眼閃の奇蹟」
これが一番手ごわい作品だろうか。「デス博士の島その他の物語」で少年の現実と空想が交じり合うように、この物語の主人公リトル・ティブの主観もどこまで現実でどこまで空想なのかわからない。空想というより、むしろ「アメリカの七夜」のナダンの幻覚のようにものかもしれない。しかもリトル・ティブは盲目ときたもんだ。彼が知覚しているものがどこまで正しいのかわからないから、いろんな想像をしてしまい、混乱した物語がさらに混乱していく。もちろん、これこそジーン・ウルフの狙いなんだろうけど。
何もかも現実と幻想の混乱で片付けそうになった後半、突然父親の登場とその説明で明確になる。「アイランド博士の死」で島の秘密が明らかになったときにも感じた驚きがある。今まで現実にはありえないと思えたものが突然現実的なものへとひっくりかえる。これって全く、センス・オブ・ワンダーなのだが、明らかになったかと思えたところで終わらずに、また現実と現実と幻想が入り混じった形で物語が終わる。
最後にリトル・ティブとニッティとドロシーが線路の上を歩いていく結末はとてもいい。ドロシーが一緒なのは幻想なのかもしれないが、リトル・ティブにとってはドロシーも現実なのかもしれないと思うと、結局どこまでが現実でどこからが幻想なのかわからなくなる。もしかしたら全部現実なのかもしれないわけで。
[ 『デス博士の島その他の物語』 ジーン・ウルフ 国書刊行会 ]
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昨日は『デス博士の島その他の物語』の感想を書いていたら夜になってしまい、どこにも出かけず仕舞い。そんなわけで夕方から、『ボーン・コレクター』(ジェフリー・ディーヴァー)を読み始める。
デンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリーで映画化されたあれである。テレビでも何度も放送されているけど、評判のいい原作を未読なため避けていて、まだ観たことがない。
原作の『ボーン・コレクター』は予想通り面白いのだが、困ったことに『デス博士の島その他の物語』の後に読むとつまらなく感じたのだった。あまりにリーダブルな感じがして、もっとひねりはないのかとか思ってしまうのだ。
でもこの違いは面白い、つまらないのではなくて、全く違う面白さに頭が切り替わっていないんだろうと思っている。
うまく説明できないので例えると、ピカソの抽象画を見た後に、ワイエスの精密な画を見たような感じ、なんていうのを考えてみた。ピカソの絵は解釈などを含めていろいろ考えないと見られないだろうが、ワイエスの画は写真みたいな画にただため息をつくというか。と、考えてみたのだが、ワイエスの画はピカソを見た直後に見ても決して退屈とは感じないだろうと思ってしまい、うまい例にならなかったのだが。
でも『ボーン・コレクター』が面白いのは事実で、とりあえず一気に3分の2を読んだ。明け方、寝て9時過ぎに起きる。朝食などを取りながら続きを読んで読了。
夕方から雨が降る。花見もしないうちに桜が散っている。
夜、アンテナが表示されない問題を調べる。もうかれこれ何ヶ月か続いている不具合なので、いい加減直さなくちゃいけないなぁと思って重い腰を上げたのだが、なんのことはない30分もかからず解決。こんなことなら早くやればよかった。
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いうまでもなく、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライム・シリーズの第一作である。気になっていながら今まで読んでなくてようやく読んだ次第。
文句なしに面白い。たまたま『デス博士の島その他の物語』の後に読んだので、読み始めてしばらくはあまりにリーダブルな気がしたが、一気に読ませる力を持っている。あまりに有名な作品で、もう6年以上前に翻訳されているものなのでいまさらという気がするが、そういってしまうと僕に書ける感想なんてなくなってしまう。例によって、内容に触れるので紹介を期待している人はご注意を。要するに、文句なしに面白いので読もうか迷っているのなら、即読むべしってことである。
いきなり犯人のことを書いてしまうと、過去の犯罪をお手本に犯罪を犯すわけだが、このお手本となる過去の犯罪者がなんとなく「切り裂きジャック」っぽく感じて、結構気に入っている。その犯罪者を追う四肢麻痺のリンカーン・ライムの頭脳プレイが面白い。犯罪者が次の事件の予告をして、ライムがその謎を解き事件を未然に防ごうとする。
よく言われる名探偵ほど、被害者を見殺しにしているんじゃないかという話があるが、ライムの場合かなりの確率で救っているのが素晴らしい。現代的な猟奇殺人事件という物語でありながら、犯人対探偵の対決という昔ながらの図式を組み立てているのが、面白さの理由じゃないかと思う。コーンウェルの作品など、面白いと思いながらも、被害者が次々と無残な殺され方をしていくとだんだん憂鬱になってくる。
もうひとついいところは、古典的な本格ミステリの構図になっているのに、そのことを読者に気づかせない点である。大体、ミステリの犯人はよくできているミステリほど、(物語の中であれ、読者の頭の中であれ)最初に容疑者からはずされる。『ボーン・コレクター』でも、ミステリの原則通り犯人は最初から登場しているのだが、ライムの活躍を描く現代的なミステリだと思わせて、さらに息もつかせぬ事件の連続で、これを気づかせない。
『ボーン・コレクター』というタイトルなのに、犯人がボーン・コレクターと表記されるのはかなり遅い。ライムが骨の標本を持っている場面で、もしかして『ボーン・コレクター』って犯人のことではなくて、ライムのことだったのかと思ったあと、ボーン・コレクターという表記やその由来が語られる。
ライムが「ボーン・コレクター」なのかと思ったのもあながち間違いでなかったのだなと思って、ふと気づいたのは、つまりこの時点でも読者へのヒントが語られていたっていうことか。
科学捜査の細かい描写を積み重ねていくなど、きわめて現代的なミステリのようでいて、実はかなり本格推理小説の骨組みを守ろうとしている作品なのだ。
自殺願望の強いライムが、結末でだいぶ心が揺らぐものの、結局は変わらないというのもいい。もちろん気持ちが変わってくれた方がいいのだが、考えて見ればたった4日間の物語なのである。人の気持ちなんてそんな簡単に変わるものじゃない。それにしても、この分厚い本がたった4日分っていうのも考えてみればすごいもんだ。
[ 『ボーン・コレクター』 ジェフリー・ディーヴァー 文春文庫 ]
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『ボーン・コレクター』に続き、リンカーン・ライム第二作『コフィン・ダンサー』(ジェフリー・ディーヴァー)を読み始める。
でも初日から飲みに行って読書は進まない。
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昨日は飲みすぎて、いつの間にか寝ていた。6時に起きて朝風呂から一日が始まる。
そして、今日も突発的に飲み会。おかげで『コフィン・ダンサー』(ジェフリー・ディーヴァー)は、二日で20ページかそこらの超遅読状態。
今日もまた飲みすぎ。
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週の初めから飲みすぎなので、今日はまっすぐ帰宅。家で泡盛を飲む。まあ、結局飲んでいるけど、そんなにたくさん飲むわけじゃないので中休み?
夜、そろそろ連ドラは新しいドラマの話題が出始めている今頃になって、「白夜行」の最終回を観る。最終回までは順調に観ていたのだが、前にも書いたように「アンフェア」にあまりにはまりすぎて、最終回だけ観てなかったのだ。ようやっと、「アンフェア」熱も落ち着いて、「白夜行」も観なくちゃと思った次第。
しかし、「白夜行」がつまらなかったわけじゃなくて、これがまた面白かった。最終回を観終えて、また超長文になってしまいそうなくらい書きたいことがあるのだが、今日は時間がないのでまた今度書く。
「アンフェア」の面白さとはちょっと違っていてイ、書きたいことは、ドラマ「白夜行」については、原作小説『白夜行』をどう脚色したかということに尽きる。
「白夜行」の1話を観たときにミステリのドラマ化としては最低なことに、原作の結末を最初に見せてしまう。原作は、犯人が主役側にいるので厳密なフーダニットではないので犯人が誰かということはそんなに重要ではないが最初のシーンがそれでいいのかと思うし、フーダニットでない代わりホワイダニットであるのに動機も明らかにしてしまう。これは酷すぎると思ったものだが、ミステリを純愛ドラマにしてしまう以上それも仕方のないことだろう。
でもそれが原作を読んでいる人にも、というか原作を読んでいる人にこそ説得力があるようなストーリーになっていて、これに感心したのだ。
とか書き始めると2、3時間かかりそうなのでやっぱり後で書く。でも、書き始めると、また録画を再視聴したりして、2、3時間どころか一日潰れるんじゃないかという気がする。とかそんなことしている暇はあるのか。なんとなく、この続きを書く時間がとれるのか心配になってきた。
早く帰ってきたけど、電車では眠かったりして、今読んでいる『コフィン・ダンサー』(ジェフリー・ディーヴァー)は、ちょっと進んだだけ。
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朝から夕方まで外出。
夜は今週三回目の飲み。それぞれ別の飲み会だけど、3回とも同じ人が一人一緒で、要するに飲む口実を作ってるだけみたいである。今日なんかその人と二人っきりだし。
読書は軌道に乗り始めるが、飲んでばっかりなのでやっぱり読書は進まない。
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『コフィン・ダンサー』(ジェフリー・ディーヴァー)の読書が面白くなってきたので、夜はまっすぐ帰って読書。残り三分の一は明日の楽しみに残して寝る。
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『コフィン・ダンサー』(ジェフリー・ディーヴァー)読了。リンカーン・ライム・シリーズは噂どおりに面白いので、続けて第三作『エンプティー・チェア』(ジェフリー・ディーヴァー)に行こうかとも思ったのだがちょっと脱線、『トラヴェラー』(ジョン・トウェルヴ・ホークス)を読み始める。
『トラヴェラー』は、本屋で見かけた際、「『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン)のチームがはなつ最新超大作」等宣伝されていて、「?」と思ったのがきっかけで興味を持った。映画ならわかるのだけど、なんで小説で「チーム」なのかと思ったのだ。巻末の訳者あとがきを見ると、『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットで編集者ジェイソン・カウフマンの元には多くの作家から売り込みが殺到したそうだ。そんな中から、カウフマンが目をつけたのが全くの無名の作家の新シリーズで、その第一作目が『トラヴェラー』なのだそうだ。
それなら、「『ダ・ヴィンチ・コード』の編集者が見出した新たな才能」とかなんとかいえばよさそうなもんだが、カウフマンのプロモーションは単に小説を売るというだけじゃないようで、既にユニバーサルが映画化権を獲得したとか、監督はスビルバーグかなどといわれて、さらにWebサイトを作っての宣伝と結構派手な売り出し方をしている。こうなると、小説だけでは終わらなくて、映画、ゲームなど様々な分野に展開する総合エンタティメントなんだね。
小説の作者は、こういうプロモーションを気に入らないらしくて、表に出てきていない。「創作のパワーが殺がれる」という理由で、プロフィールの公開もインタビューなどの宣伝活動を一切拒否しているとか。面白い話だ。
そんなわけで、『トラヴェラー』を読み始めた。
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リンカーン・ライム・シリーズ第二作である。前作からしばらく時間が経っており、あれほど自殺に固執していたライムは自殺を考えていない。アメリア・サックスがよき相棒として鑑識を進めているが、ロン・セリットーが新たな事件を持ちこんでくる。今の事件の調査を中断しても、ライムがか関わりたいと思うはずだというのは、殺し屋コフィン・ダンサーの行方を追うことだった。
ライムがダンサーに固執する理由は、ライムの部下が鑑識をしようとしたときに、仕掛けられた爆弾によって殺されたということがある。目的は証拠隠滅である。それくらい完璧に証拠を残さないダンサーだが、ライムは前作同様微細証拠から徐々にダンサーを追い詰めていく。
普通に考えると、今回はライムの方がかなり有利な立場にいるように思える。ダンサーは三人の人物の殺しを請け負っていて、物語の冒頭一人目が飛行機の爆破によって殺される。残り二人は警察に保護されるので、ダンサーは不利な状況に置かれてるいる。しかし、標的となった人物は無謀にも警察の保護よりも自分の会社を守ることに固執して、自らダンサーの狩場へと出て行く真似をしてしまう。そうならなければ、話にならないわけだが。
ライムの頑固さ、アメリア・サックスの頑固さもさりながら、この標的となる女性がパーシー・レイチェル・クレイもまた頑固でそれが物語の軸になっている。ライムたちの警告も聞かず、自分の飛行機会社を守るために契約を履行して飛行機を飛ばそうとする。このパーシーに対留守態度が、アメリア・サックスに嫉妬を起こさせる。『コフィン・ダンサー』は、ライム対ダンサーの対決の物語でもあるが、ライムとアメリア・サックスの恋愛の第二段階の話でもある。それらが、彼らの性格などともかみ合っているので、納得できる。
物語はライム側と殺し屋側が交互に描かれ、サスペンスものとして展開するのだが、前作がサスペンスものだと思っていたら実はきっちりとした推理小説にもなっていたように、今回もそういう仕掛けがあって思わず唸る結末が待っていた。真相がわかってみると、でもそれはないんじゃないかと思うようなところも多少あるのだが、これだけ楽しませてくれるとまあ細かいところはいいんじゃないかと思ってしまう。緻密な描写が魅力なのに、そういう矛盾したフォローをしてしまうくらいには、よく考えられた展開である。
[ 『コフィン・ダンサー』 ジェフリー・ディーヴァー 文春文庫 ]
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午前中は雑用をこなして過ごす。午後一にはケーブルテレビの調整というか調査がある。地上波デジタル放送の受信状態を測定してくれるとか。午後は、この調査がいつくるかわからないので、夕方まで出かけられないと思っていたのだが、意外に早くというか時間前にきて、ちょっと早いけどいいですかというので大歓迎で調べてもらう。
リアル本屋をちょっと見て廻る。『コーデックス』(レヴ グロスマン ソニー・マガジンズ)という本が目に留まる。イギリスでベストセラーになっている、幻の本をめぐる話らしい。惹句に『薔薇の名前』や『抱擁』の横に置くべき本とかいうのがあって、面白そうだと思ったのだけど、評判はどうなんだろう。『ダ・ヴィンチ・コード』よりも、地味目な感じが食指をそそるのだが。
読書は昨日読み始めた『トラヴェラー』(ジョン・トウェルヴ・ホークス ソニー・マガジンズ)を少々読む。昨日の日記に書いたように鳴り物入りで紹介されているけど、なんとなく普通にSF冒険ものという感じ。もっともまだ4分の1くらいしか読んでいないけど。
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妄想手帖に、TVアニメ『夢使い』放送開始を載せてるのだけど、これは今とても気になっているアニメなのである。
原作は植芝理一の『夢使い』。知ってる人には説明不要なのだけど(って当たり前か)、背景がこれでもかというくらい描き込まれている漫画で、絵柄は全然違うけれど、大友克洋、諸星大二郎と並ぶ描きこみ系作家である。もちろん、話もマニアックで不思議で好きなのだけど、これっていろんな意味でTVアニメ化が不可能な感じなんだけど、OVAではなくてTVアニメでやってしまうという。
サイトを見ると、背景はそれなりに描き込まれていそうで、あの絵がアニメで動くということ自体ちょっと感動なので、ものすごく気になっている。録画予約入れたけど、どんなものになるのかちょっと心配。
物語もちょっと危ないものなので、もちろん深夜放送だけど、テレビ向けにだいぶ変わっていそうだな。それがいい方に転ぶのか悪い方に転ぶのか。
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年度替りのドタバタは一旦落ち着く。今日もちょっと早く帰る。
『トラヴェラー』(ジョン・トウェルヴ・ホークス ソニー・マガジンズ)は半分くらいまで読み進む。決してつまらなくはないんだけど、やっぱり普通のSF冒険ものという感じが物足りない。SFというにはセンス・オヴ・ワンダーが足りない。単に設定がSF的な冒険ものみたいなのだ。物語の背景の世界が、まだすべては明らかになっていなくて、タイトルの「トラヴェラー」は別の世界に移動できる人たちをいうのだがそれが一体どういうことなのかまだ出てきていないし、これから面白くなるのかもしれないが。とりあえず、そういう期待をしながら読んでいこう。
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高層ビル27階で仕事をしている。ふと、外をみるとミルク色の風景。すぐ近くのビルがぼんやりと見えるほかは、何もかも濃い霧に包まれている。霧じゃなくて、霧雨だったのかもしれないけど。外を見た瞬間は吃驚したよ。
夜、『ナルニア国物語』を観る。『ナルニア物語』は先に原作を読んでおきたいと思ったのだが、時間がちょうどよかったので。映画って、観ようと思ったときに観ないと見逃すので、いいことにした。
しかし、最近、観る映画の選択理由がほとんど「時間がちょうどいい」である。そのうちしっぺ返しを喰うな。
読書は『トラヴェラー』(ジョン・トウェルヴ・ホークス ソニー・マガジンズ)で、特に報告すべき進展はない。報告すべき進展ってのは、「ごめんなさい、私が間違ってました。この話すごいよー!」とか書きたくなるような予想外の展開なのだが、5分の3くらい読んだところでは印象が変わらず。
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原作の『ナルニア国物語』は読もうと思っていて読んでない作品で、結局映画を観る前に読むこともできなかった。なので、原作がどう映画化されているかについてはわからない。
映画化されたらそれはまた原作とは別の作品だと思うし、別の作品にまで昇華されていなければ、それは観る価値のない作品だと思う。だから、原作がどう映画化されているのかはある意味どうでもいいのだが、『ナルニア物語』くらいの作品になると、どうでもいいとは言ってられないよね。原作を読んでいない人間がいうのも変な話だが。でも、それはどんな作品にも共通していることで、この部分がきちんと映像にならないのなら、この部分が伝わらないのなら、映画になんかして欲しくない、っていうのはどんな作品でも共通の話だ。
原作を知らずにいうならば、映画としては面白かった。映画の力というよりは、原作の力なのかなという気はするが。
『ロード・オブ・ザ・リング』が原作だとほのぼのした感じがするのに、映画では緊迫感バリバリのスペクタクルになっているのと較べると、のんびりしていて、原作を読んでいないけどのんびり感は原作に近いのかなと思った。
もし原作を読んでいたら、一番映像化で気になるのはきっと、箪笥の中からナルニアに入り込むところだろうと思うのだが、これは満足できるかもしれない。あと、魔女の恐ろしさについては、ひとえにティルダ・スウィントンの力なのだけど、ホントに怖い魔女だ。『コンスタンティン』で演じた天使が、憎らしいくらい天使らしくてお気に入りなのだが、魔女をやらせてもちゃんと魔女だねぇ。
総合評価としては、原作をとりあえず映像にしたというレベルかなという気がする。その真実については、原作を読んで判断しよう。
[ 『ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女』 ]
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今日は遅ればせながら、『イーオン・フラックス』を観てきた。ちょっと期待はずれかな。家に帰ってきて、ビールとチューハイを飲んでまったり。さて、録画しておいた『夢使い』を観てみますか。
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『イーオン・フラックス』を観た。予告やポスターで、主演のシャリーーズ・セロンが、180度開脚してほとんど平面状態のポーズをとっているのが有名だけど、それに象徴される全編ニンジャ・アクションの映画なのかなと思っていた。
意外とアクションの連続というよりは、小難しい未来の設定の説明とかはいって、今いちアクションにカタルシスがない。盛り上がるべきところで、盛り上がらないのだ。
いろんな謎も、結末に向かってわかってくるのだが、わかった結末はそんなに驚くべき結果でもないし。いろんなSF的設定が、説明を結構省略しつつ出てくるのはわりと好きなのだが、省略というよりは説明不足と感じてしまうのはなんなんだろう。
この映画の場合、やっぱりそういう謎や真相は、あくまでアクションシーンの背景でしかなくてよくて、ドンパチや華麗なアクションがメインであればいいのだと思う。思考停止して、楽しめるアクションであれば。
その単純なところが今いち満たせていないんだよね。というわけで、結構期待はずれだった。
つい数日前に、殊能先生の日記で、「『ボンデージファッションの女に二丁拳銃を持たせればとりあえず映画になる』という安易な発想はそろそろやめませんか。」というのを読んで笑ったのだが、それを思い出した。ただそこで槍玉にあがっていたのは『アンダーワールド:エボリューション』で、一作目の『アンダーワールド』は吸血鬼対狼男の対決ものでちょっと好きだったので半分苦笑いだけど。
[ 『イーオン・フラックス』 ]
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まずはオープニングから。植芝理一の絵が動いてる! 夢使いが動いてる! っていうだけで、結構感動もん。
だけど、オープニングって、本編と違って一回切りなので、結構凝ったフルアニメーションなんかも出てくるのが普通だと思うのだが、意外に動きが少ない。静止画を動かしたり、動くシーンでも風で服が波打ってるくらいでわりと単純な動き。それでもそれなりに見えるのは、絵コンテがりんたろうだからなのか。でも、オープニングでこの程度しか動かないのだと、本編は押して知るぺしだなぁと思ってちょっとがっかりもした。
本編の物語は、原作と全然違う。でも、細かなエピソードを原作のあちらこちらから引っ張ってきている。『夢使い』だけじゃなくて、『ディスコミュニケーション 精霊編』なんかのエピソードも交えて、雰囲気的には「夢使い」ワールドを再現しているという印象。
最後のクライマックスで、「遊ぶ」ときには変形ロボとか使って欲しいとか思ったけど、まあいいか。
第1話の展開からすると、1話完結で最後に夢使いたちが「遊ぶ」というストーリーでいくのだろうか。原作をそのままはやっぱりきついので、そういうのもいいかもしれない。「夢使い」外伝っていう感じかな。
ということで、次回も観る予定。
[ 『夢使い』 第1話「夢始め、雨の教室」 ]
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今日も映画を観に行く。今日、観たのはジャッキー・チェン主演の『THE MYTH/神話』。いつものジャッキー・チェン映画とはちょっと違う。『HERO』『LOVERS』みたいな歴史ものと現代を舞台にしたいつもジャッキー・チェン映画が融合しているという凝ったもの。ヒロインのキム・ヒソンが綺麗だった。
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『THE MYTH/神話』を観る。いつものジャッキー・チェンの映画とはちょっと違う。秦の時代と現代との話が交互に続き、最後にそれが一つに繋がって、ワイヤーアクションありのクライマックス。ジャッキー・チェンは、現代では考古学者、秦の時代では将軍という、一人二役を演じているのだが、現代は普段のコミカルなジャッキー・チェンだが、秦の時代はニコリともせずに真面目な顔で通すし、カンフーではなく剣や槍で戦うという全く違う雰囲気だ。
秦の時代のエピソードは、『HERO』や『LOVERS』に対抗しているんだなと思う。ただ、これを観ていて、歴史大作のようなものがこれだけはやっても、ジャッキー・チェンがこれまでそういう映画に出なかった理由がなんとなくわかった。生真面目な顔をしたジャッキー・チェンの似合わないこと。また、将軍ということでかぶっている冑が似合わない。どうあっても、ジャッキー・チェンには『HERO』や『LOVERS』は無理そうだ。
そんなわけで、冒頭から秦の時代のエピソードで始まると、これで二時間は辛いなぁと思ってしまった。ところが、崖から落ちたジャッキー・チェンは現代で目を覚まし、また同じ夢を見たという。そこから始まる現代の話は逆にコミカルでジャッキー・チェンはこっちの方がずっと生き生きしていていい。しかしあまりに二つの物語にギャップがありすぎて、やっぱりこれは失敗なんじゃないかと思ったのだが、クライマックスの過去と現代が結びつく頃には結構面白くなってきた。現代部分では、無重力を起こす隕石の謎などがでてくるのだが、これがどう過去の話に繋がるのかと思ったら、トンデモ科学的な結末がクライマックスの舞台を作り出す仕掛けになってるのもよかった。
総合的には、全編歴史大作みたいなものは合わないジャッキー・チェンを、現代の話と合わせてまとめあげたのはよかったのかなと思う。それとヒロインのキム・ヒソンが無茶苦茶綺麗だった。秦の時代にジャッキー・チェン扮する将軍との恋はかなわなかったが、クライマックスで現代のジャッキー・チェンと出会う。ここまできたら、普通ハッピーエンドにしそうなもんだが、悲恋で終わらせてしまうのは、やっぱり歴史大作ものを意識しているのかな。どうせ真面目ぶった顔のジャッキー・チェンは似合わないんだから、最後はおバカなハッピーエンドにしてしまったってよかったんじゃないかと思うのだが。
[ 『THE MYTH/神話』 みゆき座 ]
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『トラヴェラー』(ジョン・トウェルヴ・ホークス ソニー・マガジンズ)読了。訳者あとがきによると、三部作らしい(それも確実ではないらしいが)。一応の完結はしているのだが、役者がそろった、さあいよいよ物語の始まりだという感じ。『ロード・オブ・ザ・リング』の一作目を観終わった時のような、ここで終わっちゃうのかよという感じ。でも、早く続きを読みたいという感じはなくて、別にこのままでもいいかなと思ってしまった。申し訳ない。
『殺人方程式 〈切断された死体の問題〉』(綾辻行人 講談社文庫)を再読する。
先月、『鳴風荘殺人事件 殺人方程式U』(綾辻行人 講談社文庫)が講談社文庫に入って、タイトルの『鳴風荘殺人事件』がなんとなくいいなぁと思ったのだが、よく見たらサブタイトルに「殺人方程式U」とあるわけだ。それで『殺人方程式』ってどんな話だったかなと思って思い出そうとしたのだが全く思い出せない。本棚から探して、パラパラページを繰ってもわからない。ふつう、話を忘れていてもパラパラめくるだけで大体思い出すのだが、全く思い出せない。それで二作目を読む前にもう一度一作目を読み返そうと思ったのである。
数ページ読んでも全然記憶にないので、もしかして買ったまま読んでいないのかとも思ったが、しばらく読んでいたらだんだんおぼろげな記憶が甦る。とはいえ、犯人もトリックも全く覚えていない。
ちなみに、『鳴風荘殺人事件 殺人方程式U』は10年以上前の作品。
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「アンフェア」に予想外にはまってしまったので、春スタートのドラマも何か見てみようかと思って、「クロサギ」を見てみた。原作は同タイトルのコミック『クロサギ』。最近、コミックスが原作のドラマとか映画多いなぁ。一回目の感想は、つまらなくはないけれど、「アンフェア」なみにはまりそうではなかった。原作との違いが気になる。
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『ダ・ヴィンチ・コード』の編集者ジェイソン・カウフマンが見出した無名の作家の新シリーズだという。その帯の惹句によれば、「『ダ・ヴィンチ・コード』のチームがはなつ最新超大作」とかで、編集者がどれだけ小説に影響度を持っているのか疑問だが、その編集者のタイプや作家とのコミュニケーションの取り方の違いによるので、実際のところはなんともいえない。ただ、「チーム」というのはどうなんだろうと疑問に思うが、ウェブサイトを立ち上げて大々的なキャンペーンをして、映画化も決まっているとかいうと、まさにチームによる仕事なのかもしれないが。
こうなると小説というよりは、小説から映画、果てはゲームやアミューズメントパークでのアトラクションまで含めた総合エンタティメントのプロジェクトなんだろう。頭から総合エンタティメントに反発するつもりはないが、そういう話を聞いてしまうと小説として読む気力はかなり減退する。ところが、この大々的な宣伝に対して、作者は「創作のパワーを殺がれる」という理由から表に出てこないというのでちょっと興味を持った。プロフィールには、「グリッドから離れて暮らしている」という一行のみだという。
グリッドとは、小説の中にもでてくるが、現代の文明をある視点から眺めたとき、営利事業や政府プログラムは、辿っていけば誰の居場所でも突き止められるグリッド−−すなわち格子状の升目になっているという。現代社会に生きるとこのグリッドから逃れることはできない。グリッドにひっかかることなく生きるには、地下経済に関わる仕事をするか、すばやく移動するしかない。
そんなわけで興味を持って読み始めた。物語はトラヴェラーという別の世界に魂のようなものが移動できる力を持つ人々と、トラヴェラーを殺そうとするタビュラという組織、そしてトラヴェラーを守ることを使命としてきたハーレクィンという一族の戦いの物語だ。トラヴェラーが何者で、タビュラの目的がなんなのか等々は物語の中で徐々に明らかになっていくが、結局『トラヴェラー』一冊を読み終えてもまだすべてはわからない。
というより、あくまでも役者がそろった、本当の物語はこれから始まるという導入部に過ぎない。全体がどれだけなのか不明だが、一説に寄れば三部作の第一作らしい。四六版600ページ弱の本で、まだ三分の一なんだからボリュームはあるが、どうも期待していたほどではないんだよなぁ。
設定的には伝奇小説的な要素もあるSF的なのだが、SF的なのは設定で終わってしまって、物語自体はあくまで冒険ものでしかない。冒険ものでも悪いわけではないのだが、折角のSF的な設定が生かされていない気がしてしまうのだ。ただ、まだ役者がそろっただけと書いたけれど、話が壮大なのではなくて、もう既に一つの山場を迎えているのに、そういう実感がないだけなのかもしれない。
しかし、映画ならサスペンスありのアクションものになると思う。でも、ちょっと辛口の感想かもしれないけど、小説としてはむしろグリッドの怖さとか、トラヴェラーとハーレクィンとタビュラの血の伝奇的な歴史をもっと読ませてほしいと思ってしまうのだ。
[ 『トラヴェラー』 ジョン・トウェルヴ・ホークス ソニー・マガジンズ ]
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クロサギを見る。
原作はコミックスの『クロサギ』。amazonの紹介文中に次のように書かれている。「世に三種の詐欺師あり。他人を騙し、金銭を巻き上げる“シロサギ”。異性を餌とし、心と体を弄ぶ“アカサギ”。そして人を喰らわず、シロサギとアカサギのみを喰らう“クロサギ”がいる。家族を死へ追いやったシロサギを憎悪し、ただシロサギのみ喰らうことを生涯の目的とする男の、復讐の物語が始まった!」。
原作は読んでいないのだが、これまたamazonの内容紹介からすると、原作の第1話、第2話の「財団融資詐欺」がドラマの第1話の元になっているようだ。ドラマの2話のあらすじがサイトに出ているが、原作をいろいろ脚色している感じ。第1話は比較的原作に近いのかもしれないが、どうなんだろう。
ドラマの1話の「財団融資詐欺」で、一夜にして事務所が消えうせるのを見て、『白昼の死角』を思い出す。『白昼の死角』が天才的な知能犯の話に較べて、こちらのシロサギはあっけなくクロサギに嵌められる。詐欺の手口が一つの見せ場だと思うのだが、ドラマで描かれているだけだとこんな簡単に詐欺師が騙されるのかと思う。
一度はクロサギの手口に使われる会社に疑問を持ちながら、簡単に幽霊会社をしっかりした会社だと信じてしまうところとか、小切手を利用したテクニックとかシロサギ自身がよく知っていることではないのかという疑問。詐欺師ゆえに、騙している自分が騙されているとは気づかないというのはあると思うが、説得力が欠ける。
ドラマのリアリティは、すべてがすべてリアルである必要はないが、せめて見ている瞬間にはなるほどと思わせなくてはダメだと思うのだ。詐欺の手口がこのドラマの一番の肝だと思うので、他の部分でドラマの嘘というのを受け入れられても、詐欺の手口で嘘っぽさが見えてしまうとかなり辛い。
原作ではこの辺のところはどう処理されているのか、興味がある。
[ クロサギ ]
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昨夜遅かった割に早く目が覚める。7時過ぎに起きて、日記を書いたり、Webをアクセスしたり。そのうちなんとなく眠くなってきたので、再び寝る。今度は昼頃目を覚ます。
平日はある程度世の中の時間帯に合わせなくてはならないが、休日は本能の赴くままに眠くなれば寝る、目が覚めたら起きるというのが最近の主義である。あと、ひたすら眠り続けてみたい、24時間とかもっと長くこれ以上眠れないというまで眠ってみたいが、たぶんそんなに眠れないだろう。あと、躰が痛くなりそうな気がする。
昼間は今日も『殺人方程式 〈切断された死体の問題〉』(綾辻行人 講談社文庫)を読む。とりあえず、半分くらいまで読んだが、だいぶ思い出してきた。しかし、登場人物のキャラなんかは全く記憶に残ってない。どういうことかな、全く。
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