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2007年5月前半
そろそろ「うたかたの日々」を終わりにしようかとふと思った。ふと思ったというと、思いつきみたいだけれど、むしろここしばらくずっと考えてきたことが背景にあった上で、最近読んだ何冊の本やちょっとした出来事が重なって考えたことである。
日記をやめるということではない。行き当たりばったりな、はかなくも消えていく日々を過ごすのは、そろそろ終わりにするべきなんじゃないかと思った。
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昨日の「うたかたの日々に終わりを告げるとき」の続きを書こうと思っていたのだが、遅くなってしまったのでまた今度。
昨日、過去日記のデータ整理をしていて、『読書術』(エミール・ファゲ 中公文庫)を読み返したくなる。読書の奥義は「ゆっくり読むこと」というこの本の内容を今となっては既に忘れていて、なのに日記には感想がほとんど書かれていない。この辺にあるはずという記憶で本棚を探すがなかなか見つからない。
今朝もまた気になって探していたら、何のことはないやはり最初に探したところから見つかった。持って出かけ、再読。
昼間、いつになく露地栞に読みたい本を多く追加。ブックマークは用が済んだら消すつもりなのだが、溜まる一方。ブックマークしたのに、『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』が既に上映開始していることに今頃気づいた。整理しないからこんなことになる。ブックマークの意味がない。
そんなブックマークの一つ、たりぃの読書三昧な日々 『本の雑誌が選んだこの30年間のベスト30』についてを眺めていて、『始祖鳥記』(飯嶋和一 小学館文庫)が無性に読みたくなる。買ったはずなので本棚を探すが、やはり見あたらない。見つからないと気になって、しばらくするとまた探してしまう。
足かけ一週間も読んでいる『12番目のカード』(ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋)がいよいよ佳境。晩酌しながら、最後まで一気に読むつもりが、途中から猛烈な睡魔が襲う。昨夜から今朝にかけて2時間くらいしか寝ていなかったので、今日は一日何をしていても眠かったのだ。『12番目のカード』を読んでいる間は夢中になって読んでいたのだが、酒が入った途端やはり睡魔が訪れた。
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2日の平日を挟んで、ゴールデンウィークの後半。
ようやく『12番目のカード』(ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋)を読み終える。なかなか面白かった。一種のマンネリ化を脱している。
ひょんなことからく『歌麿殺贋事件』(高橋克彦 講談社文庫)を再読。すっかりストーリーを忘れていて、初読のように楽しむ。探偵役の歌麿研究者塔馬双太郎とワトソン役の私こと「美術現代」の編集者杉原のコンビで描く、浮世絵の贋作詐欺を中心にしたミステリで、浮世絵美術の蘊蓄を語りつつコンゲーム的な面白さがあって面白かった。
『ヒストリアンU』(エリザベス・コストヴァ 日本放送出版協会)を読み始める。『ヒストリアンT』を読み終えてから、すっかり時間が経ってしまったが読み始めるとすぐに、あの世界に引き戻される。これは面白い。
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今日も『ヒストリアンU』(エリザベス・コストヴァ 日本放送出版協会)を読む。
しかし、天気が良くて暑いくらいに暖かいせいか、本を読んでいると睡魔がやさしく訪れる。数ページ読んでは夢の中へ。
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リンカーン・ライムシリーズ第6作『12番目のカード』(ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋)を読む。
なかなか面白かった。さすがのジェットコースター小説も、四作目の『石の猿』では先が読めてしまい、次の『魔術師(イリュージョニスト)』もよくできたストーリーだと思うのだがマンネリ化してきた感が強かった。
『石の猿』にしても『魔術師(イリュージョニスト)』にしても、作品の水準は決して低くないのだが、どんでん返しの連続のジェットコースター小説は、どんでん返しのための展開になりがちである。またどんでん返しの連続というのが一つのパターンなわけで、どんでん返しがあるものとして予想をしながら読むために、その予想を裏切る驚きがないと満足できないという読者側の贅沢な期待感が、作品の最低水準を吊り上げていく。
『12番目のカード』は、しかしながら、そのマンネリ化を乗り越えた異色の展開だと思った。途中完全に騙されたと思ったののだが、そのときに思ったのは、騙されたのには犯人の狡猾さにではなく、ジェフリー・ディーヴァーの叙述ミステリ的な騙しだと思った。マンネリ化の打破として、なるほどうまい手を使ってきたものだと思った。だがそれもまたうまくしてやられたことにあとから気づくはめになるのだが。
物語は、ハーレムの高校に通うジェニーヴァという少女が、博物館の図書室でマイクロフィルム化された過去の記事を読んでいる最中に襲われるところから始まる。最初はレイプ目的と思われるが、リンカーン・ライムはレイプがカモフラージュだと見抜く。犯人の目的は何なのか、それはジェニーヴァの調べていた140年前の陰謀にまつわる事件の謎なのではないか。ライムたちは、再度襲ってくるだろう犯人からジェニーヴァの保護し、いつものように微細証拠から犯人の特定を急ぐ一方、140年前の謎に挑む。
以下多少ネタバレを含む。
『12番目のカード』がネタバレを回避している一つの理由として、犯人像ではないかと思う。
ライムシリーズは、一作目の『ボーン・コレクター』から一貫して、強敵である犯人を据えて、その犯人とライムとの一騎打ちという姿勢を貫いてきた。ちょっと違うのは『エンプティー・チェア』くらいだろうか。その他の作品はほとんどの作品が、その強敵を表したタイトルになっている。
『12番目のカード』もまた、トムソン・ボイドという恐るべき殺し屋を強敵に据え、ライムの緻密な科学捜査との対決をしていく。だが、今回はトムソン・ボイドとの対決の終わりが物語の物語の終わりではない。これがまた一つの弱点でもあり、トムソン・ボイドのキャラが他のシリーズからすれば若干物足りないかもしれない。またこのため、物語も殺し屋との対決という一本の骨が入っているのではなくなった。
だが、むしろ敵との対決一本のストーリーによる展開の予測はできなくなった。トムソン・ボイドが逮捕されたあとの展開が予測不能になっているのだ。それともうひとつ、どんでん返しを繰り返すにしても、叙述トリック的な書き方が多くなり、読者をミスリーディングさせることにより意外な展開を見せる。無理などんでん返しは矛盾を引き起こすが、ミスリーディングによるどんでん返しはそういう矛盾を少なく驚かせる。
トリックやどんでん返しだけでなく、ライムの治療の話、ロン・セリットーのエピソードなど、シリーズものの強みであるレギュラー登場人物たちの様々な試練も描かれていて、面白く読めた。前作あたりでライムシリーズも一旦読むのを終わりにしようかと思ったが、次回作が気になるようになった。まだしばらくライムシリーズは期待して良さそうだ。
[ 『12番目のカード』 ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋 ]
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休みが続いて中途半端に休養すると、それまで溜まっていた疲れが出てくるようで、昨日は昼間から寝てばかりいた。お陰で夜になっても眠くない。眠くないときに寝ようとすることほど馬鹿なことはないと思っているので、普段ならそのまま起きて好きなことをするのだが、今日に備えて十分な睡眠を摂っておきたかった。半分まどろみながら眠って、6時には目を覚ます始末。
一旦起きたが、1時間半では睡眠が足りないので、やはり寝直す。
昼頃に起きて遅い朝食。図書館に出かけて、雑誌のチェックと予約本の受け取り。遅い昼食というか間食というのか、パンで腹を膨らませて出かける。今日は歌舞伎座に団菊祭の夜の部を鑑賞に行くのである。
夜の部の演目は「女暫」、「雨の五郎」「三ツ面子守」、「神明恵和合取組」の三本。昼の部には「勧進帳」などがあって、こちらの方が人気なのだろうが夜の部も面白かった。歌舞伎を観るのももの凄く久しぶりだが、思っていたより楽しめた。
読書は引き続き『ヒストリアンU』(エリザベス・コストヴァ 日本放送出版協会)を読む。
夜は「純米吟醸 越の寒中梅」。あてに冷や奴用に生姜を切っていたら指を切った。情けない。
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『歌麿殺贋事件』(高橋克彦 講談社文庫)を読む。再読だがほとんど覚えていなくて初読のようだった。
歌麿研究者塔馬双太郎を探偵役にした、浮世絵をテーマにした連作短編形式のミステリである。「殺贋事件」とあるが、中島河太郎の文庫解説によれば作者の造語で、「贋作をこの世から抹殺すること」という意味である。つまりテーマは贋作詐欺で、事件の絡みで殺人もないわけではないが、メインの話は贋作詐欺の話になる。
連作短編形式と書いたが、これも文庫解説にあるのだが、元々短編で書かれた歌麿関係の作品に大幅加筆し、新しい章を書き下ろして長編構成にしたとある。全六章に分かれているが、それぞれ単独の短編として楽しめる。
贋作詐欺ということで、浮世絵美術の蘊蓄を語りつつ、コンゲーム的な面白さを持つミステリになっていてなかなか面白い。探偵役塔馬双太郎の相棒として、「美術現代」の編集者杉原を語り手にして、浮世絵の蘊蓄についても塔馬と杉原の対話によって判りやすく説明させている。
その蘊蓄話がただ語られるのではなく、それが詐欺の手口と表裏一体になっているので無駄がない。デビュー作の『写楽殺人事件』でもテーマになっていた写楽の正体の話も出てきて興味深い。
第1章の塔馬双太郎初登場の「歌麿の首」は、今日たまたま開いてみた自選短編集にも収録されていて、自信作のようだ。僕の好みは三章の「歌麿真贋勝負」などがお気に入り。六章の「歌麿因果」なども、連係プレイのコンゲーム的でかなり好きだが。
派手さはないし、連作短編形式で長編化されているだけなので迫力はないが、じっくり味わえる作品ではないかと思う。
[ 『歌麿殺贋事件』 高橋克彦 講談社文庫 ]
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前半後半まとめて連休の最終日。昨夜またまた寝つけず、4時過ぎにようやくまどろみ始めたと思え5時に眼が覚める。もう一眠りしようと眠りに戻れっても、7時に眼が覚める。このまま起きるべきか、もう少し寝るべきか迷うが、やはり無理に寝るのは無駄だと思い起きる。
朝食後、録画したテレビドラマの消化。「ライアーゲーム」を1話から4話まで観る。つまらなければやめようと思っていたが、面白く観られたので続けて観てみようと思う。再放送ドラマの「ギャルサー」もまとめて観るが、くだらないと思いながらもそれなりに見せる。
読書は、漱石の「草枕」を少し。「智に働ければ角が立つ」に始まる一文が有名だが、そのあとを知らなかった。「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」云々というのは新鮮だった。単に何気なく開いたのだが、そのまま暫く読みふける。全部読むまではいかないが、数日かけて続きを読もうかという気になる。
夜、CATVで「ウルトラセブン」の放送があり、第一話から観る。突っ込みどころ満載だが、かっこいいところも満載。ウルトラシリーズでは、「ウルトラセブン」が一番好きなので、引き続き観たいところ。忘れなければ。
ゴールデンウィーク前の一週間は、年度始まりの忙しさで映画を全く観に行っていない。ゴールデンウィークも混雑するのが嫌で映画館には足を運ばなかった。もう半月近く映画を観ていないので、あまり混まないレイトで観に行こうかとも思ったが、なんとなく面倒になって観に行かない。
並行読みの『打ちのめされるようなすごい本』(米原万里 文藝春秋)を少し、あらたな並行読みとして『数学はインドのロープ魔術を解く』(デイヴィッド・アチソン ハヤカワ文庫)を少しずつ読む。
主たる読書の『ヒストリアンU』(エリザベス・コストヴァ 日本放送出版協会)は停滞。
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筒井哲也のコミックス『マンホール』全3巻を友人の紹介で読む。「何も訊かずに読んでみてください」と内容の説明はなし。『マンホール』というタイトルと、やや不気味な絵柄を目にして、どんな話かと思いながら読む。意外に吸引力があり、立て続けに3巻読んで読了。そこそこ面白かった。ちょっと気分的には気持ち悪い。ダメな人もいると思う。
筒井哲也って初めて読んだが、ストーリー展開はもちろんだが画力にも満足。画がうまくないコミックスって苦手なのである。ということで、友人の言葉をそのまま、「何も訊かずに読んでみてください」と書いてみる。分量も3巻なのでそんなに時間はかからない。ちょっと怖いもの見たさだけど、あんまりグロイのは勘弁してくださいというようなそこそこを求めるなら丁度いい。
年期の入った方には物足りないと思う。あまり長いと「おなか一杯」になってしまうような内容ではあるけれど。
それだけだと感想にならないので、何も訊かずに読めないよ、という人のために書いてみる。書影の帯に「バイオ・ホラー!」とあるのが内容を少し示しているが、ホラー的な始まり方はするけれど、むしろミステリ、サスペンスの類だと思う。「バイオ・サスペンス」というのか。ホラーのような理不尽さ、描写から始まるが、それらの原因は明らかになっていき、解決されない超常的な出来事はないので、個人的なホラーの分類からするとホラーとは言い難い。気分的に気持ち悪い、ダメな人もいるだろうというのは、「バイオ」の部分で、ズバリ「寄生虫」である。ただ寄生虫そのものがグロイのではないけれど。
「寄生虫」の使い方が、あるホラーに分類される名作を思い出した。それと較べてしまうと、もっと不気味な世界、ザワザワする世界を描けるように思う。「寄生虫」そのものより、画で見せてしまっているが、「寄生虫」ってもっと気持ち悪く描けると思うのだ。とか想像しているだけでザワザワしてきた。
それにアウトブレイクする展開もある割には、あっさりと終わってしまうのは物足りない。軽く10巻くらいに膨らみそうなのに、綺麗にまとまって終わってしまう。
そういう、綺麗にまとまって終わるあたりも、ホラー的ではない。ピーター・ジャクソン監督の『ブレインデッド』みたいな悪ふざけをしろとまでは言わないが、「バイオ・ホラー」ならあれくらい収拾がつかない展開になってしかるべきだ。
おすすめでもなければ、つまらないでもなくて、「何も訊かずに読んでください」となってしまうのは、知らずに読めばそこそこインパクトあり。グロくておなか一杯になる前に終わる辺り品がいい。期待しすぎると物足りないということか。
[ 『マンホール 1』 『マンホール 2』 『マンホール 3』 筒井哲也 スクウェア・エニックス ]
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タイトルが気になったので録画した『悪夢のエレベーター』というドラマを観る。ほとんどエレベーターの中で進行する密室劇。単発の1時間ドラマだった。目を覚ますと、やくざ、オカマ、眼帯と片手に包帯を巻いた女子高生とエレベーターに乗り合わせていた。エレベーターが止まって閉じこめられたらしいが……。演劇的な、ブラックユーモアに包まれた話で、面白かった。
一体このドラマは何だったのだろうと思って検索したら、「悪夢のエレベーター」というブログがあり、ブログで書かれた小説が幻冬社から『悪夢のエレベーター―Nightmare after a Secret』として出版された模様。そしてそれが今回ドラマ化されたみたいだ。
作者の木下半太は、チームKGBという劇団の主宰。通りで演劇的だと納得。
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春のドラマ『ライアーゲーム』を4話まとめて試聴。面白かったので、継続してみる予定。原作はコミックスで、『ライアーゲーム』(甲斐谷忍 集英社)らしい。未読。
物語は馬鹿正直な女子大生神崎直(戸田恵梨香)の元に現金一億円と「ライアーゲーム」への招待状が届いたことから始まる。「ライアーゲーム」に参加すると、対戦相手が知らされる。対戦相手も同じく、現金一億円を貰っている。対戦相手を知らされてから、30日以内に相手のプレーヤーから1億円をだまし取る。プレー終了後、持ち金の多い方が勝者であり、勝者は1億円をライアーゲーム事務局へと返却し、残りの金額すなわち相手からだまし取った金額をプレイヤーの取り分として得ることができる。敗者は最初の参加資金1億円を返却しなくてはならない。事務局はどんなことをしても1億円を取り返すという。
神崎直は意図せず「ライアーゲーム」へと参加させられてしまう。そして事務局から知らされた対戦相手は中学時代の恩師(北村総一朗)だった。直は恩師藤沢に会いに行くが、これは新手の詐欺だと藤沢に騙され一億を早速だまし取られてしまう。交番に相談した直は、事件性が明かでない今は警察は何もできないといわれるが、その日天才詐欺師秋山深一(松田翔太)が出所してくることを訊く。直は最後の頼みの綱として秋山に頼るのだった。
というわけで、秋山は直を助けて一億円を取り返せるのかというのが発端の第一話。単純な騙され方、詐欺師の秋山がどんな理由があれ直を助けるか、なんてあたりがまずは引っかかるところなのだが、あまりにも直が馬鹿正直すぎるという設定が生きていて、違和感なく見られる。恩師から一億を取り返す、ライアーゲームに勝つにはさらに相手の一億も取る騙しとることになるのだが、それがうまくいくかは第二話へと続く。
1話が正味36分(CM等を除く。オープニング等を含む)しかないので、無理矢理引っ張って二話へ持ち込んだ感じもしない。
期待の第2話で秋山の取った作戦は、結論から言うと一番最初に思いつくポピュラーな方法だった。たぶんこうだろうと予想がつくのでその通りだったら見るのはやめようかと思っていたのだが、その結末までの準備、最後の騙しのために積み重ねる作戦が面白くて予想通りの騙しなのだが面白く見られた。そしてこのエピソードへの結末のつけかた、「ライアーゲーム」に勝ったと思ったそのとき、第二回戦の案内が届き、二回戦に参加せざるを得なくなる展開がまたうまかった。
毎回、ライアーゲームの参加者と一対一の頭脳プレイの話なのかと思ったら、第二回戦では屋敷に招かれた22人のプレイヤーが、多数決ならぬ「少数決ゲーム」で勝ち抜き戦を行い、最後に残ったプレイヤーが総取りするという話だった。秋山の数学的な勝利方法で直たちは作戦をすすめるが、秋山が「ゲームが操られている」と見抜く推理の内容など、それぞれ見せ場があって面白い。
第4話の終わりでは秋山の作戦が失敗に終わるが、秋山が逆転を賭けてある行動にでる。想像している結末はあるが、ちょっとエレガントとはいいがたく、いかにエレガントな解答を出してくるかをちょっと期待している。そして期待は何戦まで続くのかわからないが、このあとのゲームの内容と秋山とライアーゲーム事務局との関係か。秋山がゲームに参加する切っ掛けは元を辿ればライアーゲーム事務局にたどり着くので、秋山は偶然でなくライアーゲームに招かれたのだろうと思っている。となると、秋山が刑務所に入る理由となった詐欺事件とライアーゲーム事務局、特に仮面の男との間にも何か関係がありそうで、その謎が明らかになってドラマは完結するんじゃないかと予想している。さてどうなることか。
ところでライアーゲーム事務局としてビデオなどでピエロのような仮面をかぶって出てくる人物がいる。『SAW』のパクリかなと思ったのだが、原作ではどうなのだろう。
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エリザヴェス・コストヴァの『ヒストリアン』は、非常に面白かった。最初にタイトルを見たとき、一体どんな話なのかわかったようなわからないような、どちらかというとやっぱりわからないと思った。わからないというよりは、内容が想像つかないといった方がいいのかもしれない。
「歴史家」という意味だろうかと思っていたが、「読者へ」という前書きのようなものを読んですぐに、「歴史学者」にルビを振って「ヒストリアン」と書かれていた。『歴史学者』というタイトルに一体何を思い浮かべられるだろうか。
前書きを読むと、いまや歴史学者として活動する著者が若い頃の出来事を振り返って書き記す、回想のように見える。だが、その文末に書かれた日付は「二〇〇八年一月十五日」という未来の日付であり、創作であることをほのめかしている。前書きからして物語となっているわけだが、うっかりすると作者の言葉として読み、本当に回想録なのかと思って読み始めてしまうような、そんな真面目な語り口で物語は始まる。
「第一部」という中見出しを捲った裏に、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』からの引用が挟まれている。本文は、十六歳の語り手の回想から始まる。少女は父の本棚から一冊の本と書簡の束を見つけるのだが、その本は真ん中に竜の挿絵があるだけで、残りのページは真っ白なままという奇妙な本だった。そして、書簡には、謎めいた言葉が記されている。
やがて20ページも読み進めれば、今度は「ドラキュリア」という言葉が出てくる。『吸血鬼ドラキュラ』の引用があったこともあわせれば、これがドラキュラにまつわる物語なのだろうと漠然と感じる。事実、ドラキュラにまつわる物語なのだが、それでは何故『ヒストリアン』なのかと思いながら読み進めることになる。
重厚な雰囲気だけでも面白く読み始められるが、一巻の半分を読んでもまだまだ全貌は見えてこない。この物語は吸血鬼譚であることは間違いないのだが、果たして本当に吸血鬼がいるのか否かはっきりしているようではっきりしないまま物語は進んでいくのだ。
この現実なのか虚構なのかという曖昧さは、吸血鬼映画の撮影に本物の吸血鬼が吸血鬼役で登場してしまう『シャドウ・オブ・バンパイア』を思い出した。
語り手の少女の時代、少女の父が語り出す過去の出来事、その父の話に出てくる恩師の若き日の出来事、三つの時代が交互に語られる中、だんだんと物語の全貌が見えてくる。三つの時代で竜の挿絵のある本、その影に見え隠れするドラキュラ−−ワラキアの串刺し公ヴラド三世の歴史に光が当たり始めると、その秘密を暴こうとする者達の元に警告のような奇怪な出来事が起こりはじめる。果たして、一体何が起こっているのか。ドラキュラは吸血鬼として今も実在するのか。その謎を解くには、図書館に埋もれた古文書を手がかりに現存する遺跡を巡る歴史の旅に出るしかないのだった。
吸血鬼マニアはもちろん必読だが、そうでない人にもお薦め。歴史を巡る重厚な物語の体裁を取りながら、恋愛ストーリーも絡めつつ、新たな吸血鬼の物語を紡ぎあげている。
[ 『ヒストリアン T』 『ヒストリアン U』 エリザヴェス・コストヴァ 日本放送出版協会 ]
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ウエンツ瑛士が鬼太郎を演じる実写版『ゲゲゲの鬼太郎』を観た。可もなく不可もなくというところ。いや、可はあるが絶賛ではなく、不可もあるが最低ではないかもしれない。
冒頭、子供たちが森の中を行くのだが、何だろうと思っていると妖怪ポストを見つけて投函するという。まず、これ観て泣けた。感動的なシーンとかいうのではなくて、やっぱり妖怪ポストでしょという感じ。全編、可があるのはこういう鬼太郎と来たら、ビビビのネズミ男の図々しさでしょ、目玉のオヤジの茶碗風呂でしょ、一反もめんに乗って空を飛ぶでしょ等々、ほとんど遺伝子に刷り込まれたような鬼太郎ワールドが出てくること自体が、泣けてしまう。
ウエンツの鬼太郎は悪くはないのだが、やっぱりちょっと大人すぎる。
霊毛ちゃんちゃんこにリモコン下駄、毛針のCGなんか最高だけど、突っ込みどころもあって、妖怪アンテナ太すぎでしょとか、鬼太郎が片目でなかったり。すごくいいのだけど、突っ込みどころになってるのが、毛針を思いっきり発射したあと坊主頭になってしまってでもその次のシーンではまた長髪に戻っているところ。毛針を使いすぎて丸坊主になってしまうのは、原作にも「妖怪大戦争」(タイトル違うかもしれない)で実際にあったけど、死闘に近い戦いで髪の毛を全部使い果たすくらい毛針を発射していて、さらに髪の毛が生えてくるまで時間がかかるのだったと思う。
あんまり簡単に丸坊主になって、しかもすぐ毛が生えてくるっていうのは、あるあると思いながら次の瞬間ありえないと思わず笑わせる。狙いは笑いだったのかもしれないが。
こう書いていくと、やっぱり結構気に入っていて、そうなるとウエンツの大きな鬼太郎がちょっと残念。やっぱり子供の役者で、やってほしかった。
鬼太郎よりもっといいのはネズミ男である。大泉洋がネズミ男と聞いたときには嫌な予感がしてたんだけど、杞憂だった。ほとんどネズミ男を演じるために生まれてきたみたいな素晴らしいネズミ男だった。コスチュームだけがもうちょっとセンス良かったらなぁと思うが、不満はそれくらい。
ほかにもいろいろ納得の場面があるのだけれど、メインとなる物語がちょっと物足りなかったのと、敵方の妖狐族たちがいまいちだった。砂かけ婆、子泣き爺、塗り壁!などレギュラー陣はみんなよかった。田中麗奈の猫娘が、襲いかかるときに顔が豹変するだけというのがちょっと残念なくらい。
主題歌の「ゲゲゲの鬼太郎」の歌を誰が歌っているんだろうと思っていて、ラストクレジットを見ていたらTEPPEI KOIKEと出てきて何だろうと思ったら、小池徹平はそういやWaTでウエンツの片割れだったのに映画には出ていなかったっけ。
お薦めというわけではないのだけれど、『ゲゲゲの鬼太郎』の想い出がある人はちょっとみてもいいかなと思う。というか、観たあとに話がしたい。
[ 『ゲゲゲの鬼太郎』 監督本木克英 出演ウエンツ瑛士 新宿ミラノ ]
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何かで『電脳コイル』というタイトルを目にしていて、期待の新番組アニメというような話題だったと思うのだが、内容を何も覚えていない。でもこのタイトルは何かそそるものがあって、タイトルだけは記憶の端に残っていたみたいだ。
そんなわけで、テレビの録画予約をしているときに『電脳コイル』という名前を見つけて、予約を入れておいたのだが、今日その放送があった。
早速観てみると、予備知識がないのもあるが、舞台は近未来のようだが日常的な雰囲気で始まることにアレッと思う。主人公の女の子の連れているペットの犬がどうやらヴァーチャルな犬のようだとか、携帯電話もヴァーチャルな画面が出てきたり、眼鏡をかけているけどそれは視力矯正のためではなくてヴァーチャルなディスプレイなどを見るためのものだとかだんだんわかってくる。そしてペットのデンスケが変な黒い物体を追いかけて、壁の中に消えてしまう。デンスケを探す間に知り合った、「コイル電脳探偵局」という名刺をもって、電脳ペットをさがす仕事をしている子供と知り合い、デンスケを探して貰うのだが。
なんていうか、ジュブナイルSFというか、サイバー時代の少年ドラマシリーズ(アニメ版)みたいな感じで、結構良かった。というか、まだ登場人物紹介の一部という感じで、話はこれからなのだが。
監督・脚本の磯光雄のオリジナルの作品らしいが、脚本家の宮村優子を起用してノベライズ版の『電脳コイル』も書かれて、順次発売のようだ。公式サイトの宮村優子の言葉によれば「アニメ版を踏襲しつつも、こちらはまた新しいキャラクターを登場させながら独自の物語を展開させてゆく予定」というのでこちらも気になる。
ちなみに、5月18日(金)午後7:18〜NHK教育テレビで第一話のみ再放送するそうだ。
[ 『電脳コイル』第1話 監督磯光雄 NHK教育 ]
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綿矢りさの『インストール』を読む。書影は文庫から持ってきたが、読んだのは単行本なので、文庫に併録された書き下ろし短篇は読んでいない。
「インストール」を読むのは、最後まで読んだのは初めてになる。第38回文藝賞を受賞した際に、文藝賞発表の「文藝 2001年冬号」を買っているのだが、途中まで読んで放り出していた。たぶんつまらなかったとかいうのではなくて、そのうちきちんと読もうと思って、6年経ってしまったというのが正直なところだと思う。
その間に上戸彩主演の映画『インストール』も、深夜にテレビで放映されていたのを少しだけ見た。こちらはCMが入り、カットされているかもしれない地上波放送を見る気にならず、ちらちら観たもののCATVで放送したものを録画して、こちらもそのうちきちんと観ようと思ってそのままになっている。
そんなわけで、「インストール」を読み始めてすぐに、主人公朝子の口調は上戸彩の声に重なり、かずよしは神木君のイメージがダブってきた。脳内再生される上戸彩演じる朝子は結構イメージがピッタリあってしまい、最後まで上戸=朝子として読んでしまった。ただ、映画のかずよしの優等生振りと較べると、小説のかずよしはもっと普通の小学生のような気がして神木君イメージは次第に消えていった。
これだから原作を先に読まないと嫌なのである。上戸=朝子の「インストール」は、たぶん初めて読んだ「インストール」とは違うはずである。でも、映画を観ずに小説「インストール」を読んでいても、脳内再生される朝子のイメージは僕の中にしか存在しないわけで、大した違いはないのかもしれないが。むしろ映画『インストール』を観たら、上戸彩違うぞと思うかもしれない。が、それはまた別の話。
それで「インストール」は、今更だけど面白かった。文章は、文体、特に最初句点の使い方がすごく読みにくく感じた。そこで区切る意味はわかるのだが、違和感というか読むリズムと合わない気がした。物語に入り込むとそれほど気にならなくなったが、最初はなんとも話にも入りにくく感じた。思っていたより突っ込んだエロの世界にちょっと意外な気がして、へえっと思っていたら、ばれていないと思っていた秘密がばれていることが判っていく畳みかけるような展開で一気に読み終わる。エロチャットという話からドロドロとした話にはならずに、あっけらかんとして、さわやかな結末。
その展開が面白かった。後半ジェットコースター小説的な快感。
ふと思い出したのは、市川準監督の『ノーライフキング』という映画だ。いとうせいこうの『ノーライフキング』(新潮文庫)を映画化した作品なのだが、原作が自分の「リアル」をコンピュータの世界に求めて行くのに対し、映画の『ノーライフキング』は正反対にコンピュータの外−−現実の世界に「リアル」を求めていくという原作と真っ向から対立した結末を持つ。原作を好きなものからしたら考えられない、許されない映画化という気がするが、逆に言えば生半可に映像化しただけではないわけで、素晴らしい作品になっている。個人的に最も好きな映画の一本といえる。(しかし、今amazonを検索しても、DVDはおろかビデオもない。)
「インストール」の朝子が自分がなんなのかわからなくなったときにふと入り込んだエロチャットの世界、チャットだけでなく親の目を盗んで学校に行っている振りをして、かずよしの家の押入で過ごす閉じた世界から、最後に元の世界に戻る気持ちに変わるのが、ふと似ているような気がしたのだ。
なんとなく気になって、本棚から「文藝」を探し出す。文藝賞発表の号なので選評が載っていたので読んでみる。選評だからかもしれないが、なんだか難しいことを書いているようで、なんとなく腑に落ちない。綿矢りさの「受賞の言葉」があったが、この言葉が一番しっくりきた。自分の存在意義が判らなくなる気持ちって、中学高校くらいのときに自分が考えていたことを思い出すと、よく判る。インターネットやエロチャットというのを除いたら、あまりにストレートにそのままの気持ちを書いただけで、綿矢りさの言葉自体がまさにそう書いている。
「インストール」が書かれてから6年経って読んでみて(6年も経っていたことには「文藝」を引っ張り出してきて初めて気づいた)、インターネットもケータイもメールも当時から想像していた以上に広がっている今では、物語に書かれていたエロチャットをはじめとする数々の出来事が全然目新しくないせいか、余計ストレートに伝わってくる。逆に当時の状況を想像してみたら、ブログを書いているようなインターネットの昔からのヘビーユーザが当時から今に至るまで綿矢りさを必要以上に特別視しているような気がしていたけど、6年前にこういうシチュエーションを描ける人なら当然のことかもしれないと初めて気がついた。
一般的には綿矢りさって現在、どういう「作家」として位置づけられているんだろう。ヴォネガットが自分がSF作家だとラベリングされていることを初めて知ったとき、自分では人生についての小説を書いているつもりだったので驚いたというエピソードがある。
綿矢りさにしても、あまりに当たり前すぎるごく普通の高校生の悩みを書いただけなのに、何か特別なラベリングをされたような感覚を持ったのではないかという気がしてならない。
新刊の『夢を与える』(河出書房)が、amazonの内容紹介を読むと、チャイルドモデルから芸能界に入り、幼い頃からテレビの中で生きてきた少女がブレイクする話ということで、なんとなく普通の自分につけられた違和感のあるラベルの話なのではないかという気がして興味が湧いてきた。
[ 『インストール』 綿矢りさ 河出文庫 ]
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ハヤカワ文庫の〈数理を愉しむ〉シリーズの一冊『数学はインドのロープ魔術を解く』>『数学はインドのロープ魔術を解く 楽しさ本位の数学世界ガイド』を読む。
最初に数字マジックの話から始まる。
まずマジックを演じる者はある数字を書いておく。そして誰かに、3つの異なる数字からなる3桁の数字を思い浮かべて貰う。それを左右逆転して、大きい方から小さい方を引く。できたその数字に、その数字を左右逆転した数字を足して貰う。ここでおもむろにマジシャンは最初に書いた数字を見せる。「あなたが1089と書くことは判っていました。」
このマジックの秘密は単純で、今の計算をした結果はすべて1089になるのである。
著者は40年前10歳の頃、《アイスパイ》という子供向けの年間読本でこれを知り、数学に興味を持ったそうだ。そんなエピソードから始まって、数学の面白さ、不思議さなどをいろいろと紹介する。数式もちらほら出てくるが、決して難しい話にはならない。ちょっと判りづらければ、その1ページを読み飛ばしても大丈夫。最後は、タイトルにもある「インドのロープ魔術」の話で締めくくる。
[ 『数学はインドのロープ魔術を解く』 デイヴィッド・アチソン ハヤカワ文庫 ]
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『タンノイのエジンバラ』(長嶋有 文藝春秋)を読み始める。半分まで。
あいかわらず、並行読書の『打ちのめされるようなすごい本』(米原万里 文藝春秋)も一日一エッセイみたいなのんびりペースで読んでいる。
何故か急に忙しくなる。
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