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2007年7月後半
9時過ぎに起きる。明日から6時起床の生活に戻れるのか不安。急に肩凝りになり、右肩から首にかけて痛む。
午前中、激しく揺れる。テレビをつけて、NHKに変えるともう地震情報をやっている。すばやい。大きいと思ったけど、関東の地震情報など皆無。新潟から長野あたりが激しかった模様。「新潟県中越沖地震」と名付けられたとか。
午後だらだらと過ごす。夕方出かけて、エビス黒とザ・プレミアムモルツ黒を買う。「クラフト カマンベール入り6Pチーズ」を最近よく買うが、「クラフト ゴルゴンゾーラ入り6Pチーズ」を見つけた。即購入。
本屋で『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)を六版が出たため、半額で売っていたので購入。
『綿矢りさのしくみ』(小谷野敦、渡部直己、吉本謙次 太田出版)を読む。まだ第1章『「綿矢りさ」と同世代の文学少年・少女たち』(吉本謙次)を読んだところだが、『蹴りたい背中』(綿矢りさ 河出文庫)について、「恋愛小説と同じ設定を使って、でも恋愛小説にはなっていない」というくだりがあって、「えっそうなの?」とちょっと驚いた。いや、確かに読んでいる間はハツとにな川の関係ってなんだろうと思っていたけど、最後の1ページで100%の恋愛小説だと思った。そうでなければ、なんであんなところで終わるのか。
最近、感想を溜めがちで、『蹴りたい背中』の感想も書いていない。感想を書くまで、他の人の感想・評価・批評等は目にしないようにと思っていたのだが、書かないうちに『綿矢りさのしくみ』を読み始めてしまったのだけど、だんだん記憶も薄れ始めているので、感想を書くにはもう一回読み直した方がいいかもしれない。
夜、ギネスを飲み、ゴルゴンゾーラ入り6Pチーズを試食。なかなかいいので、また買ってこようと思う。ギネスを飲みながら日記を書こうと思うが、日記を書く前にギネスを飲み終わる。いつだって、ギネスはそんな感じで、何かをしながらという前に飲み終わってしまう。
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『綿矢りさのしくみ』(小谷野敦、渡部直己、吉本謙次 太田出版)を引き続き読む。
第2章の「徹底吟味『蹴りたい背中』の技術水準」(渡部直己)の中で「綿矢りさの『蹴りたい背中』ってどんな話? と聞かれたら、この箇所を教えてやれば足りる。要するに、こういう事に作中ずっと悩んでいる、過激で、いじけていて「雑草」(!)たる他人にはチクチク厳しくてネクラな、かなりヤな女の子のお話」とあって、うーんそうなのとやっぱり疑問に思った。「ヤな女の子」が主人公の話かもしれないけれど、他者との関係部分が主眼ではないと思うのだけど。
第1章の結びも、「(私vs)クラス」を重要なキーワードとしてまとめていたけど、背景にそういうものはあるかもしれないけれど、そこでまとめてしまうのはどうも違和感を感じる。まあ、1章は『インストール』あるいは『蹴りたい背中』の作品論ではなくて、綿矢りさと同世代の文学少年・少女たちの違いについて論じているので間違いではないのだけれど。(「(私vs)クラス」については、引用したりまとめても長くなるので、興味がある方は『綿矢りさのしくみ』に当たってください。)
しかし、自分もハツとにな川の話としてその他の部分を切り落として考えているかもしれない。他者との関係の話について、冒頭しか印象がないのだが他にも出てきたんだっけ? やっぱり読み返さないとダメだ。
夜、『ゾディアック』を観に行く。映画館で映画を観るのは19日の『300』以来なので、ほとんど一ヶ月ぶりだ。随分たくさんの映画を見逃してしまったが、このところの懸念事項が一旦解決したので、再び映画も観に行けそう。
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bloc経由でお送りいただいたメッセージ読みました。お答えする連絡先がなかったので、とりあえずメッセージを読んだご報告をしておきます。今後ともよろしくお願いします。
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冒頭、「実際の事件に基づく」という言葉から始まる。ドキュメンタリータッチではないのだが、事件を追いかけていくのはとても真面目な映画という印象。デヴィッド・フィンチャーというと、凝った映像が映像自体は面白くても映画として浮いているような気がして好きではないのだが、この映画では奇をてらった描写もなく、抑えた渋い映像が物語の重さを感じさせてとてもよい。
物語は、ゾディアックと名乗る殺人犯が、殺人のあと新聞社に犯行の声明と暗号文を送りつけ、暗号文を新聞に掲載しろといってくる。犯人は繰り返し犯行を行い、手紙を送ってくる。それを追う刑事と新聞記者の30年近い執念の物語だ。
現実の事件で、しかも時間の経過が長いため、だらだらとした話になりそうだが、執念深く犯人を追うマーク・ラファロの刑事、前半事件の取材に力を入れるが犯人から次の獲物として名指されるロバート・ダウニーJr.演じるエイブリー、事件が迷宮入りしそうになる中最後に真相を追い求め、原作となる本を上梓するジェイク・ギレンホール演じる新聞社のイラストレータ、ロバート・グレイスミスの執念に緊迫感が続く。特にグレイスミスが犯人像に迫っていくにつれ、犯人の影が見え隠れする辺りは緊迫感の連続で、なかなかうまくできている。
少しずつ見えてくる答えが、真相かと思えばまた違うというのは、どんでん返しと違って、ひたすら迷宮の中を歩くようである。さっき通ったのと同じ道に辿り着いたかと思えば、二度と同じ場所に辿り着けず、自分の位置がまるで判らなくなってしまう。そして、その迷宮は映画の最後まで続く。
映画の中の洒落てるのは、ゾディアックを犯人のモデルにしたという『ダーティーハリー』を当の刑事とグレイスミスが出会う場面になっていること。ゾディアックをモデルにしたとあれば、執念の二人が出会うのも偶然ではないかもしれないが。
[ 『ゾディアック』 監督デヴィッド・フィンチャー 出演ジェイク・ギレンホール、マーク・ラファロ、ロバート・ダウニーJr. MOVIXさいたま ]
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昨日に引き続き『綿矢りさのしくみ』(小谷野敦、渡部直己、吉本謙次 太田出版)を読み、読了。
第2章の「徹底吟味『蹴りたい背中』の技術水準」(渡部直己)は、批評っていうのはこういうもんかもね、と思うので別に文句はない。なんか違うなと思うところも1カ所あったけど面白く読んだ。
第3章「「にな川」の欲情する背中 −−『蹴りたい背中』を尋常に読む」が一番素直に読めた。この中でも「これを「恋愛」にしてしまうのは明かな読み違えで」云々とあり、なんでかなぁと疑問。そのあとの「この小説のあとでハツと蜷川がいわゆる「恋愛」を始めることはないだろう」とあるのだけれど、それはそう思う。でもおとぎ話じゃないんだから、二人は幸せに暮らしましたとさ、と続かなくても「はく息が震えた」あの一瞬っていうのは特別な瞬間なのだと思うのだ。それは「恋愛」とはいわないのだというのなら、言葉の定義の違いなのかもしれないけれど。
最後に「綿矢りさキーワード小辞典」というのがついているのだが、これが一番納得いかない。それは違うだろう、というのがいろいろあってなんだかなぁ。
でも収穫もあって、綿矢りさの好きな映画として邦画で『あいつ』と『月光の囁き』を上げているという話。『月光の囁き』を見ているのもすごいけど、それを好きでかつ好きと公言してしまえることが凄いなぁと関心。ふと、随分昔川崎チャットのオフで会った、町田康が好きな関西の女の子を思いだした。すっかり忘れていたけれど、綿矢りさのイメージとダブって思い出した。
夜、シネセゾン渋谷で『ルネッサンス』を観る。
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期待していた『ルネッサンス』を観てきた。既に予告の時点で期待が膨らんでいたのは、モノクロームの未来都市がもの凄く美しくて、内容と関係なくその未来都市の映像だけでも観たくて仕方なかった。ストーリーは、サイトで「一つの誘拐事件が、人類の未来を変える。それは触れてはいけない聖域だった。」という惹句があって、ミステリタッチの物語らしいと思っていた。
とはいえ、予告だけの映画というのも珍しくない。期待しすぎてがっかりするのは嫌なので気持ちを抑えつつ映画に臨んだ。
始まってすぐに、モノクロームの世界に引き込まれるが、アメコミ調のキャラの顔がイマイチですガッカリする。しかし顔はともかく、全身が映ったときの動きや立体感がものすごくリアルでちょっと感心する。モノクロの世界で、立体感が出て見えるのはどうしてだろうとじっと目を凝らす。遠近法と、手前の人物などは動きを大きくしているのかもしれないとか、CGを使って影のつけかたをすべてレンダリングしているからリアルなのかとか理屈をいろいろ考えるが、モノクロのコントラストだけで平板に見えてしまいそうなのに、ぐっと手前に見えてくるのだ。
しかし、なんといっても誘拐される女性が車のドアを開けると転げ落ちる飼い犬の死体。その犬の目に、女性が襲われ誘拐される様子が映っている映像を見せられた瞬間が驚きだった。なにこれ! モノクロでここまで表現できるのか。ビデオで観ていたら、思わず止めて目に映りこむ映像を繰り返し観てしまっただろう。
コントラストを強くして、光と影だけで描くイラストなどは好きで、昔よく描いた。しかし、モノクロの限界で映りこむ映像なんて想像もしていなかった。以降、夜景に鏡と化したガラスに映る人物、車の車体の反射、ガラスやヴァーチャルのスクリーンを透過する背景など光の反射、透過のシーンが続々と出てきて、それをモノクロの中で表現してみせる。最初の犬の目には驚いたし瞬間的だったのでどういう描かれ方だったか覚えていないが、その後の透過光、反射光の表現には完全な白と黒だけではなくて中間色が使われていることが見て取れた。いや、考えてみれば当たり前のことなのだが。
さらにいわゆる光学迷彩服−−映画ではステルスと呼ばれていた−−を着用した敵側の人物が動く様子が描かれたり、森の中のアクションシーン、激しいカーチェイスにも感動する。その他、地味なところでは雪、雨、水しぶき、煙草の煙、焚き火、火の粉、顔認識による人物検索、もうこれらの映像に目が釘付け。
人物の顔がイマイチとか思ったが、顔がアップになると瞬きしたり目をすがめたり細めたりするくらいは当たり前で、動揺したときに黒目が揺れるように動いたり、睫毛の動きが表現されている。
ごめんなさい。ストーリーについて何も書いてない。未来を舞台にしたハードボイルドミステリだった。これは悪くはないけど、それよりもうこの映像だよ。
モノクロで透過光とか表現しているのを観ていて、ふと昔デッサンの練習に石膏像にビニール袋を被せてデッサンしたことを思い出した。そうだ。白黒だけだって、光は表現できるんだよね。単純なことを忘れていたけれど、まさかこの白黒だけで光を描いて、しかもそれが動くなんて。いや、動いているから表現できているのかもしれないが。
映画が終わる頃には冷静になってきて、これってでも昔のモノクロの映画なら当たり前なことだと思う。思ってから、映画なら当たり前でも、アニメーションでは当たり前じゃないと訂正。
いやー凄かった。これって絵を描く奴に観てほしい。もう一度、確かめたいという意味で観たい気がする。結局時間切れで観に行けなくなりそうな気がするけど。
[ 『ルネッサンス』 監督クリスチャン・ヴォルクマン シネセゾン渋谷 ]
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文学の遠吠えの田中さんが『不思議の国のアリス』(エスクァイアマガジンジャパン)を買ったみたいなので(タイトルしか書いてなかったけど、買ったという意味だと解釈)、思わず掲示板に「ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展」のお誘いを書き込む(今はidの特定できるところにしか書き込みしないことを原則にしているので、書き込み表明しておく)。
この展覧会、テーマに「アリス」が入っているのである。期間は3週間弱なのでうっかりしていると観に行きそびれてしまいそう。
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昨日観てきたばかりの『ルネッサンス』、貰ってきたチラシに「ルネッサンスパネル展開催!」の文字が。よく見たら、公式サイトにも情報がアップされていた。シトロエン・ジャポン 青山ショールームにて、7月7日〜7月22日まで。
「主人公カラスの車として登場したシトロエン車。本国のシトロエン若手デザイナーとの協力によりファンタジックな未来型カスタマイズが施された。日本での映画公開を記念してシトロエン青山ショールームにてパネル展が開催される。息を呑むほど繊細な近未来のパリを始め、モーションキャプチャーのメイキングからストーリーボードまで、貴重な展示の数々でいち早く「ルネッサンス」の世界を感じよう。」というのだが、どれくらいの展示があるのか。
今週の日曜までか。行けるとしたら日曜の夕方だなぁ。
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都内某所にて某社主催のイベントに出席。簡単な立食パーティで歓談という感じの一時。水割り一杯、ビール2杯程度しか飲んでいないので物足りず、帰宅後、先日買ってきておいたザ・プレミアムモルツ<黒>を飲む。なかなかコクのある旨さにビックリ。こうやって書いているとまた飲みたくなってくるけど、飲んだときにはものすごく充足感があって一杯飲んで満足した。まあ、ちょっととはいえ飲んでいたのもあるかもしれないが。限定発売なので少し確保しておこう。ああ、しばらくはまりそう。
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この作品を知ったのは、豊川悦司主演で映画化された(『犯人に告ぐ』公式サイト)のを知ったからで、最近よくある劇場公開前に限定で放送するというパターンで、WOWOWでの一夜限定放送の広告を見たからである。
「第7回大藪春彦賞」受賞、「2005年本屋大賞」ノミネート、「週刊文春'04年ミステリーベスト10」等、評判のよかった作品らしい。らしいとか書いているのは、例によって2004年頃は怒濤の生活でこういう情報にも全く触れていなかったか、すべて忘れている。
ストーリーは、姿の見えぬ連続児童殺人事件に、劇場型犯罪ならぬ「劇場型捜査」で犯人に挑むというもので、「劇場型捜査」って何っていうのも読む楽しみだからそれ以上説明するべきではないと思うので、ストーリーに触れないことにする。
全体として、評判通りなかなか面白かった。面白いのは一つには主人公のキャラの魅力が大きいと思う。実は主人公は最初はあまりパッとしない気がした。それははっきりと誰が主人公といえないようなある種群像的な描かれ方であるのも理由の一つだが、この小説の主たる事件の担当となったときにその主人公がキャラ立ちするのだ。その理由もはっきりしていて、それゆえにちょっと変わっているキャラにも納得できる。
ちなみに、容貌的にも長髪など変わっているが、その辺り映画の主演が豊悦というのは結構あっているように思う。実際読んでいて、映画をまだ観ていないのにふとした瞬間に豊悦を思い浮かべるシーンが何度かあった。
「劇場型捜査」というのは、内容は書かないとはいいつつも、「劇場型犯罪」に対抗している以上想像はつくだろう。そのための方法がキワモノめいているがなるほど興味をそそる。そして冒頭から一貫してある警察内部の功績の取り合い、責任の回避などの問題が、この「劇場型捜査」を盛り上げていく。「劇場型捜査」を選んだ時点で、主人公の敵は犯人だけではなく、「観客」にも広がっているのだが、いわば劇場の共演者、裏方ともいうべき警察内部にまで敵がいるのだ。
内部の敵というのは、パトリシア・コーンウェルの「検屍官シリーズ」のような感じで、問題が起こったときに援護すべき上司や上層部などが、世間体や政治的な理由で敵に回ってしまうのに似ている。
「劇場型捜査」の対象の連続児童殺人事件を巡って、いくつかの「事件」が存在する。ここでカッコつけした「事件」といっているのはつまり警察の捜査対象の事件以外の事件を含めているのだが、これらの「事件」が結末に一気に収束していくのは圧巻である。
[ 『犯人に告ぐ』 雫井脩介 双葉社 ]
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究極映像研究所で知ったのだが、毎度気になる「大人の科学」から今度発売になるのは「大人の科学 vol.17 テルミンmini」。欲しくなるなぁ。
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上映終了間際の『スパイダーマン3』を観てきた。
2時間ちょっとの映画なのに、結構盛りだくさん。戦う敵は、宿命の敵と化した親友ハリーのニュー・ゴブリン、脱獄囚マルコが偶然の事故で砂の身体を持つ男になったサンドマン、隕石とともに地球に落ちてきてスパイダーマンをブラックスパイダーマンに変える謎の寄生生物と3人?いる。
ニュー・ゴブリンは人間の能力の延長上にいるが、新たな2人の敵はどちらも「人間以上」の存在である。サンドマンは身体が砂状になってしまう。砂を使って変形もすれば巨大化もするし、ぶつけても何しても砂状に崩れたあと元に戻ってしまう。謎の寄生生物は、スパイダーマンのスーツにくっついて黒いスーツに変わる。そのスーツを着たときのスパイダーマンは能力を増幅させ、着ているピーターの感情も高まるが、憎悪などの暗黒面を増幅する。暗黒面とかいうと、ダースベーダーみたいだが。この寄生生物は、ブラックスパイダーマンという内面の敵だけには終わらない。
人間以上のこれらの敵をどうやって倒すのかというのがアクション面では気になるところだが、ブラックスパイダーマンとなったピーターの暗黒面が一番のテーマ。冒頭ニュー・ゴブリンに執拗に追われるが、ニュー・ゴブリンも父親をスパイダーマンに殺されたと思っている親友ハリーの復讐心が生んだ敵である。今回は、ピーター自身がブラックスパイダーマンになることで復讐心などを増幅させて、ハリーの二の舞になっていく。
元々スパイダーマンって葛藤のヒーローであるが、今回はこのテーマが敵をどうやって倒すかというストーリーまで一貫しているのがよかった。まあ、ちょっと甘い結末という気もするけど、ヒーローアクションものだからいいだろう。
相変わらずスパイターマンの動きはいいけど、動きが速過ぎてぶれるような感じは好きじゃない。スピード感の出し方ももう限界にきているのかも。『スパイダーマン3』に限った話じゃなくて、さらに上を行くスピード感などを求めるのは無理があって、『300』みたいに、スローモーションを交えたり、表現方法でカバーしないと難しいのかもしれない。
[ 『スパイダーマン3』 監督サム・ライミ 日劇3 ]
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劇場で見逃していたアニメーション版『時をかける少女』を地上波で放送するというので、迷ったが観ることにした。放送時間も延長されているし、うまくすればカットされていないだろうと思ったからだ。感想は、いまひとつ。決してつまらなくはなかったし、面白いところもあった。主人公真琴が自由自在に過去に戻ること、数日単位の日常レベルで何度も同じ時間に戻って繰り返しやり直すところ、カラオケを楽しむためや友達の恋愛を後押しするために使うなど、舞台を現代にして今風にしたところに面白さを感じたりもしたのだが、何か物足りない。
以下、何が物足りないのか書き連ねていったのだが、結果としてほとんど不満・批判の嵐のようになってしまったので、もしかしたらアニメーション版『時をかける少女』を気に入った方は読まない方がいいかもしれない。
何が物足りなかったのかというと、それぞれのエピソードなどには面白く思ったのだが、主人公の心理にほとんど共感できないからかもしれない。終わりの場面でも何の感動もなかった。真琴にタイムリープの能力を与えることになる未来から来たタイムリーパーがクライマックスの「事件」で未来に帰れなくなる。そのタイムリーパーを未来に帰したい思いは判るが、その反面帰したくないとは思わないのか、そういう葛藤がなぜ描かれないのかと思う。「きっと行くよ」という約束(言葉は違うかもしれない)は、出来もしない意味のない約束に思えるのだが何でそういう言葉が出てくるのか。主人公の気持ちが全くシチュエーションと合っていないように思う。
クライマックスの「事件」の蓋然性にも疑問を感じる。初めて真琴がタイムリープすることになる「事件」がその日その時刻にその場所で起きるべき「事件」だったから、クライマックスの「事件」に繋がるのだと思うが、蓋然性が弱すぎる。大林監督版『時をかける少女』でいえば地震やその影響による屋根瓦の落ちる事故、吾郎の家の小火と似ているが、これらはその原因が変わらなければ必ず起こる「事件」である。でもアニメ版の「事件」は、人物もそれまでの経緯も変わっていて、その再現性があるとは思えない。一体どんな偶然が重なったら同日同時刻にその「事件」が起こるのか、むしろ「事件」が起こる方があり得ない確率だ。
例えばそれは学内でふざけている生徒が真琴にぶつかって木陰に休んでいる生徒を巻き込んで倒れるのとは違う。こちらはふざけている生徒が変わらずそこにいれば起こりうる出来事だと理解することはできる。あるいは千昭が真琴に告白をしようとして、友だちの関係を崩したくない真琴が何度も過去に戻ってやり直すが、言葉のやりとりの違いはあっても結局告白になってしまい、とうとう彼を避け始めるが、これとも違う。千昭が告白しようと決心しているのであれば、会話の流れが変わっても辿りつくのは告白であると納得できる。
こういういくつもの起きるべき出来事(歴史というには大袈裟だろう)が変えようもなく起こるという表現を繰り返して、クライマックスの「事件」が起きてしまうという描き方をしているのは判るが、全然説得力がない。真琴が回避したクライマックスの「事件」が必ず起こることであるならば、その「理屈」が必要である。例えば、当事者が変わっても、あるいは一度は「事件」を回避できたとしても、少しずつずれた歴史によって必ず起きるべき「事件」は起きてしまう、時間の流れには逆らえないというような「理屈」があって、それをあらかじめ見せているならば納得できたのだが。それにわずかに近いのが、天ぷらを揚げたときの失態が別の生徒に変わってもほとんど同じように起きたというエピソードだが、これがその「理屈」の説明だとしたらあまりに弱すぎる。
千昭の告白のエピソードに至っては、「理屈」の補強にならないばかりか、最後の千昭の心理とも合わせると告白しようとすること自体がそもそもかみ合わない。
設定的に気になるところは他にもある。クライマックスの「事件」でタイムリーパーが危機を救うところで、時間が止まったときにタイムリーパーの時間だけでなく真琴の時間も止まらなかったのはなぜなのか。そういう「理屈」が描かれていない。SFに必要なそういう「理屈」が全般的に足りないのだという気がする。
ここでいう「理屈」とは、あくまで物語の空想上で構わない科学的根拠や理論で、具体的にいえばタイムリープの理論や理屈である。物語上の設定といってもいい。そういう視点で最初から話を振り返ってみると、クライマックスの伏線となっている、腕に現れる数字の意味くらいしか、「理屈」が語られていないことに気づく。
たとえば大林宣彦監督の『時をかける少女』では同じ時間軸には過去の自分と同時に存在できなくないという「理屈」があって、過去に戻るとその時代の自分が姿を消してしまうことが描かれる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では過去の自分と鉢合わせしたら宇宙が消滅するかもしれないから絶対に鉢合わせしてはいけないとドクが主張していたと思う(実際には気を失うほど驚くだけだった)。
こういう理屈が、科学的に妥当性があるかとかは関係なくて、物語の嘘として物語の中での最低限のリアリティを得られれば別に構わない。もちろんそれが物語の展開を左右するような設定であることが望ましいのはいうまでもない。そういうものがあると物語は格段に面白くなってくるはずだ。
この『時をかける少女』では、腕に現れた数字の意味が判り、さらにそれがクライマックスでうまく使われるのはよかったのだが、「理屈」が出てくるのはほとんどこのクライマックスだけである。「理屈」がなくてタイムリープできる少女という設定だけだと、特殊なシチュエーションの青春ドラマにしかならない。青春ドラマでも別にいいのだけど、最後の別れの場面に関して先に書いたように、主人公の心理が表面的にしか描かれていないとなると、SFとしても青春ものとしても物足りないものとなってしまう。
こういうことをいろいろ考える前に、映画をただ観ている最中に疑問に思ったことは他にもある。
タイムリープを利用して十時間カラオケを歌って帰った真琴は喉が嗄れていた。そして焼肉を食べたくて、焼肉を食べた夕飯にタイムリープする。この物語では、タイムリープすると、過去に現れた瞬間に過去の自分はいなくなっているが、タイムリープした本人の方は記憶や肉体もそのままタイムリープ前の状態を維持しているように思える。それならカラオケから帰ったのは、本来なら帰宅した時間の10時間も後のことで、6時に帰宅したのであれば明け方4時に相当する時刻のはずだから、真琴はすごく眠くなっているはずだ。でもそういう描写はないし、きっとその後の睡眠不足を解消するために、タイムリープで二度寝、三度寝を繰り返しているのだろうがそれも描かれない。さらにタイムリープをしたときに自分の肉体的な状態も維持されるのであれば、真琴は実時間よりどんどん年をとって行くことになる。最初のほうで真琴の独白として、タイムリープが何かよくないことを引き起こすことになると暗示させる言葉があったが、それはこの時間のズレのことなのだろうかと想像したりしていた。
映画を観ている最中は単純に疑問としていろいろ思いめぐらしていただけだったが、「理屈」について考え出したら、この「タイムリープしても肉体的には現在の状態を維持する」という仮説は肝心のクライマックスと矛盾することに気づいた。もし「タイムリープしても肉体的には現在の状態を維持する」のだとしたら、肝心のあの結末でタイムリーパーを救うことはできないではないか。こう考えると、やっぱり「理屈」にのっとって物語が考えられていないのだ。
タイムリープの「理屈」の矛盾、心理的な状態の矛盾を分けて書いた方が判りやすいと思うが、ここまで書いてきて両者が交互に混ざり合ったような書き方になってしまった。これは「理屈」の矛盾を書いているとそこに心理的な矛盾があることに気づき、心理的な矛盾について書いているとそこには「理屈」の矛盾があることに気づく。「理屈」に合わせて物語を作ったために心理的な描写に矛盾があるとか、その逆なら判るのだが、両者が互いに矛盾をはらんでいるというおかしな状態にあるためだと思う。
なぜか物足りないと思って書き始めたことが、最初に予告したようにほとんど不満・批判みたいなものになってしまった。つまらないならつまらないと一刀両断してしまえばいいものを、こうやってつらつら書いてしまったというのはそれなりに面白い部分があったからなのかもしれない。それとも『時をかける少女』をこんな話にしやがって、という不満なのだろうか。
[ 『時をかける少女』 監督細田守 フジテレビ ]
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シトロエン・ジャポン 青山ショールームで『ルネッサンス』のパネル展を今日まで開催しているというので行ってみた。
青山ショールーム自体そんなに広いスペースではなくて、その一角にパネルが20数枚展示されていて、あとビデオクリップが流れているだけだった。考えてみれば当たりの話だが、あまりに少なくてガッカリした。
それから少し時間を潰して7th Floorへ移動、さかな、鈴木亜紀、Quinka,with a Yawnのライヴを聴く。
『時をかける少女』の感想で、「もし「タイムリープしても肉体的には現在の状態を維持する」のだとしたら、肝心のあの結末でタイムリーパーを救うことはできない」と書いたが、勘違いがあることに気づいたので、あとで追記するつもり。でも、勘違いしていた部分を正しく理解しようとすると、さらなる矛盾が現れる。
夜、録画してまだ観てなかった「電脳コイル」を観る。
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渋谷7thFLOORでQuinka, with a Yawnのライヴをものすごく久し振りに聴きに行く。「HIGH BRIDGE presents "SEVEN BRIDGE SUMMER FES."」として、出演はさかな、鈴木亜紀、Quinka,with a Yawnの三組。
お目当てのQuinka, with a Yawnは最初の出番。いつものメンバーに加えて、コーラスにフルカワモモコも参加の6人編成だった。人数が多い分、音に厚みがあるというか豊かな感じがして、それに久し振りにライヴでの演奏を聴くのでとてもよかった。
演奏は「ロッテの日記」で始まり、Quinka唯一の夏の曲と紹介して「真夏の蜃気楼」と続く。新曲でまだタイトルが決まっていないという曲。そして、これまた初期の曲「ナポリ」。久し振りにライヴの演奏で聴く「ナポリ」のはじける感じもとてもよかった。アルバム『micro』から「moonwalker」。実は『micro』を持っていなくて初めて聴く。「つぶ」はQuinka一人の演奏に、バンドのメンバーも客席もみんな何か音を鳴らして参加するという趣向だった。
個人的には「ナポリ」と「つぶ」が特によかった。
帰りに『micro』を買って帰る。amazonで売ってなくて、CDショップでもある程度売っている店が限られていて、さらにずっとライヴに行けなかったので、Tower recordかmona recordsに行ったときにと思っているうちにいろいろあって買いそびれていたのだった。
鈴木亜紀は先日川上未映子のライヴを聴きに行ったときに、初めて聴いた。そのときにも印象的だった「ハムカツサンド」から。今日もパワフルなピアノと歌声だった。サポートで太田恵資がヴァイオリンを弾いていた。さかなは今日初めて聴く。最後の曲がよかった。座った席の影響か、ミキシングの具合か、ヴォーカルがちょっと強すぎて慣れるまで聴きづらかったのが残念だが、魅力のあるバンドだった。
[ 「HIGH BRIDGE presents "SEVEN BRIDGE SUMMER FES."」 渋谷7thFLOOR ]
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『チーム・バチスタの栄光』で第4回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した海堂尊の作品。『チーム・バチスタの栄光』、『ナイチンゲールの沈黙』の純然たる続編ではないが、前二作の登場人物も一部登場する外伝的作品である。前二作を読んでいなくても独立した話として読めたが、最後の方で前作との関係ある部分が若干あり、読んでいた方がなおよかった。
語り手にして主人公の「僕」こと天馬大吉は留年を続けてリタイアしそうな医大生。「時事新報」の記者にして幼馴染の別宮(べっく)葉子に、碧翠院桜宮病院への潜入取材を頼まれる。頼みを断り行きつけの雀荘「スズメ」でたむろしていると、五十代後半と思しき薄気味の悪い「疫病神」のような男がやってくる。賭け麻雀でカモろうとして逆にカモられ、一気に百万円の借用書を書かされる。借金のカタに事務所に連れて行かれると、そこには別宮葉子が待っていた。「疫病神」結城と葉子は知り合いで、二人の計略にまんまと乗せられた「僕」天馬大吉は、桜宮病院の院長に会見をした直後から行方不明となった結城の娘婿立花の消息を探るため、桜宮病院へと潜入するのだった。
導入の賭け麻雀に負けた借金のカタに病院に潜入するなどの話の展開から想像つくかもしれないが、その他にも登場人物たちの特徴や行動がどことなく妙である。『チーム・バチスタの栄光』など未読であるが、医学ミステリという印象があったので、重く固めの小説を想像していたので、すっかり裏切られた。何度も「なんじゃこりゃ」と思いながら読んだのだが、別にノベルズなどで珍しくない書きっぷりなのだが、そういう先入観があったから特に違和感が強かったのかもしれない。
日本で「ユーモアミステリ」っていうとたいてい「どたばたミステリ」になっていてちっとも「ユーモアミステリ」になっていないじゃないかという不満を感じるのだが、これはよく考えてみたら「ユーモアミステリ」じゃないかと思った。
結末で一人の人物の消息が不明になるが、この消え方はピカレスクロマンを思い浮かべる。再起して新たな事件を起こすのではないかという気がしてしかたがない。
[ 『螺鈿迷宮』 海堂尊 角川書店 ]
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ロシアの支持の高い現代作家ペレーヴィンの小説。作品の一部にチャットが出てくると思っていたのだが、読んでみたら前編チャットで構成されているという、「書簡小説」ならぬ「チャット小説」である。
すべてチャットで地の文は存在しないし、登場人物の名前も「オルガニズム(^o^)」とか「ロミオとコイーバ」とか「ナッツ・クラッカー」とか「モンストラダムス」というような全員ハンドル名で登場する。
「どういうことだ? ここに誰かいるかい?」
「僕がいますけど。」
「これはいったいどういうことなんだ?」
登場人物たちはチャットルームで自分たちの状況を把握し始める。どうやら誰もがホテルによくあるようなタイプの同じようなつくりの部屋にいて、眼が覚めたらそこにいて、どうやってやってきたのか覚えていない。
これって、『SAW』みたいだ。ただ、眼が覚めた部屋には一人ずつしかいなくて、チャットでしかお互いを確認できない。
この状況は意外と複雑である。登場人物たちはお互い文字でしか存在を確認できず、場合によったら自分以外のすべての人物は自分を部屋に連れてきた人物もしくはその人物の息のかかった人物かもしれないのだ。何を信じたらいいのか判らない状況で、誰もが事実を確認しあい、報告する。
さらにややこしいのは、読者はそのチャットの文字列がすべてであり、誰かが誰かを疑っていようが誰かと誰かがぐるであろうがわからない。その発言された言葉のみで、すべてを判断しなくてはならない。
恐怖の兜、ミノタウルス、迷宮などがいろいろと語られるが、真相はだんだん判ってくるように見えて、全然判ってこない。チャットの会話だけというシンプルな反面、哲学的で意味深で読み進めば読み進むほど、物語の迷宮に囚われていく。しまいには、面白いのか面白くないのかもよくわからなくなってきた。
[ 『恐怖の兜』 ヴィクトル・ペレーヴィン 角川書店 ]
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『0093 女王陛下の草刈正雄』(篠崎誠監督)の完成会見が都内で行われたと日刊スポーツの記事(草刈正雄が二女と共演「楽しさ半減」)。記事によれば、10月13日公開。
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早くもちゃめさんがAdvanced W-ZERO3[es]入手していた。
実際に触ったレビュを読むと、欲しくなる。でも当分機種変はしない。
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溜まっていた読書感想の更新ばかりなので、リアルライフについて。
ドラマは昨日「探偵学園Q」を見る。今日は二週前の「パパとムスメの7日間」を見る。他にも何本か録画しているけど、まだ見ていない。「山おんな壁おんな」だけ1話を見て見ないことに決めた。
読書は『プラダを着た悪魔』(ローレン・ワイズバーガー 早川書房)を読み終えて、今日から『名もなき毒』(宮部みゆき 幻冬舎)を読み始める。『プラダを着た悪魔』、映画も面白かったけど、小説も面白かった。『名もなき毒』はまだ冒頭だが、無差別毒殺事件のプロローグのあと、全く関係ない社内報編集部の出来事に話が変わりどう毒殺事件に繋がっていくのか楽しみ。
『時をかける少女』の感想追記は長くなってしまってまだ書き終わらない。溜まっている感想も書かなくちゃ。
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仕事仲間がサーバ購入の見積をとっているので、何気なく話を聞くと3万円台である。
「何それ、そんな安いの?」
「メモリ増設したからで、512MBのままならもっと安いですよ」
見積していたのはDellのサイト。見れば2万7千8百円。ノートPCが十万円下らないのにサーバーが3万以下ってなんじゃそりゃ。OSなし、CDドライブなし、ネットワークコントローラなし、キーボード・マウスなしなので、OSを除いて追加すると5万弱にはなるがそれでも5万弱。
個人対象のページで調べるとサーバはなくてデスクトップになってしまう。デスクトップはディスプレイと抱き合わせ販売になってるし、Vistaも外せないのでそれほど気が狂ったような安さではない。
こうなるとノートPCじゃなくてサーバを買った方がいいんじゃないかという気がしてくる。いや、サーバじゃモバイル出来ないけど。ノートを買うとやっぱり便利で高性能なのを選んでメインマシンにしたくなるけど、費用だけ考えるとやはりデスクトップをメインにしてノートはモバイル用に最低限の機能のものを買う方がいいのかも。それとも費用よりやっぱりノートの機動性の方を重視すべきだろうか。
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先月半ばに中断したプロジェクトの打上げ。人数が多い割に、というか逆に多いために知っている人は少なくて、端の方で知っている数人と近況など話す。早くも次の過酷なプロジェクトにはいっている人も。
珍しく朝まで飲むが、気がついたら寝てた。明け方5時過ぎの始発で帰宅。すぐ寝る。
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11時頃起床。身体怠い。やっぱりもう朝まで飲むべきじゃない。
今日はもしかして今年一番の暑さか。弁当を買って暑い中を歩いていたら、『スウィングガールズ』を思いだした。
昼間はだらだらとのんびり過ごす。夜、読書。『名もなき毒』(宮部みゆき 幻冬舎)読了。面白かった。
新宿梁山泊から『それからの夏2007』公演延期お詫びの葉書が届く。退団した鄭義信が自作の無断上演だと上演差し止めの仮処分申請があったとかで、どちらに理があるのかは抜きにして単純にこういう行き違いが起こるのは悲しい。
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昨日の「電脳コイル」を録画で見る。顔面上にできた髭のように見えるイリーガルが、シムシティ化するという無茶苦茶な話。『風の谷のナウシカ』のパロディなど小ネタもあって、本筋と関係ないじゃんと思いながらも笑わされた。でもこういうの大事だ。
「女帝」の録画をまとめて3話見る。なんだか女帝にのし上がっていく過程が図式的すぎてリアリティがない。それにクラブってこんなもんなのという感じがする。高級感が感じられなくて、キャバクラと変わらないように見える。高級クラブなんて行ったことないからわからないけど。
今日になって、パソコンのハードディスクが嫌な音を立てている。今度はデスクトップが故障するのか。代替機がないのでその場合は更新できない。いよいよ新しいマシンを買わなくてはならないかも。
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デスクトップのハードディスクが奇妙な音を立てているがそもそもいつ買ったのか過去日記を遡ってみたら、2001年7月14日に届いたのだった。ちょうど6年を過ぎたところ。前からブンブンと振動音も起こっているので、ハードディスクを取り替えてまで使う気にあまりならないので、そうするとやっぱり買い換えか。
ノートとデスクトップ両方買い換えというわけにもいかないので、どちらを選ぶかというとやっぱりノートが欲しい。そんなわけで、SONYのVAIOのスペックを変更するシミュレートをしてみた。まだVAIOを買うと決めたわけではないけど、候補でもあるので。しかし、これは欲しいという機能を選んでいくとやっぱり20万は超えてしまう。厳しいなぁ。
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冒頭、松宮という刑事が叔父の見舞いにいくところから始まる。のちに松宮はこのあとに起こる事件の担当として物語に関わってくる。
もう一人の主人公昭夫の会社へと場面は変わる。妻から電話がかかってくるところから、だんだんと事件の形を取り始める。電話口からさえ少し様子がおかしいと思われる妻にせかされて昭夫は帰宅する。昭夫は妻と息子、そして老人性痴呆症の母親と同居して暮らしている。父も老人性痴呆症で既に死んでいるが、父の死後母も同じ状態になっていて、近所に住む妹が日々面倒を見に来てくれている。妻と母は折り合いが悪いのだった。
妻の電話の理由も、母親に関わることではないかと考えながら帰宅するが、事態はそんな日常とはもっとかけ離れたことだった。帰宅した昭夫は、庭に幼女の死体があることを知らされるのだ。妻の話では中学生の息子が殺してしまったのではないかという。そして息子を助けるため、死体を捨ててきてという妻に、昭夫は最初は反対していたが次第に犯罪を隠し通すことを考え始める。
特異なシチュエーションに置かれた主人公が犯罪に手を染め、その犯罪が明らかになっていく「倒叙もの」で、その探偵役が冒頭に出てきた松宮とその相棒となる。松宮の相棒こそ、彼が見舞いに行った叔父の実の息子であり、松宮は見舞いに行くことのない息子に反発と不信感を持っている。やがて事件が解決して行くに連れて、事件の裏に隠された事実だけでなく、この松宮の叔父と息子との関係も見えてくる。
『赤い指』のタイトルは、昭夫の父親が老人性痴呆症となり「お化粧ごっこ」で口紅をいたずらし、指が真っ赤になっていたという想い出が冒頭にあるのだが、そのことに関連している。だが、その昭夫の父はその想い出に出てくるだけで今は亡き人となっており、物語はそのあとから始まる。どうしてタイトルが『赤い指』なのかはずっと判らないのだが、事件の解決の裏に隠された真実が判るとき初めて意味が判る。単に犯人がわかって終わるミステリとはちょっと趣向が違う。小粒で短編小説のようなあっさりした感じがして、長編としては物足りない気がするのだが、読み終わる頃には人の心の表に見せない部分が露わになっていくのがなんとなくよい。
[ 『赤い指』 東野圭吾 講談社 ]
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映画『プラダを着た悪魔』の原作である。映画が面白かったので、そのときから原作を読んでみたいと思っていた。原作は、「VOGUE」の元スタッフという著者がそのときの経験を生かして書いたという小説で、ファッション業界の裏を描くというのもあってベストセラーになったと聞いていた。映画はメリル・ストリープの悪魔のような編集長が無茶苦茶すぎて面白かったのだが、小説も読み始めてすぐに引き込まれた。
原作の冒頭から気まぐれな編集長の理不尽な要求に四苦八苦している主人公アンディが可愛そうなのに面白い。だがそのあと過去に話は戻り、映画には描かれなかった編集長が不在の編集部での日々が続く。編集長ミランダが現れてからの大筋は同じで、仕事に振り回されてどんどん私生活がなくなっていく。友人や家族という大切な物を忘れていく。そして最後、ミランダと決別する。映画でも最後の決別が爽快だったのだが、映画の方が小説よりもスカッとさせた。エンターテイメントとしてよくできた映画らしい結末だったと思う。
しかし、読み終えて最後のこの爽快さだけを楽しみに読んでいたのだろうかと思ってしまった。そうだとしたら、それまで過酷な日々はなんなのか。最後の復讐をもり立てるためひたすら悲惨な目にあいつづけるなんて、まるでマカロニウェスタンではないか。でも最後の爽快さもそうなんだけど、やはりその過酷さになんとか立ち向かうっていうのが面白く感じていたのだろうか。もちろんあとは想像を絶するミランダの無茶苦茶さ。上司にいたら絶対許せないにもかかわらず、小説で読んでいると(映画でも)面白かった。
映画とまた比較してしまうが、ミランダにまつわるいくつかのエピソードは映画では変わっていて、ハリー・ポッターを巡るエピソードは映画の方が面白かった(ただし、あり得ない気がしたけど)。なんだか映画のことばかり書いてるね。
単行本で読んだけど、文庫化されたので書影は文庫版を貼っておく。
[ 『プラダを着た悪魔』 ローレン・ワイズバーガー 早川書房 ]
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映画
『ゾディアック』
『ルネッサンス』
『スパイダーマン3』
『時をかける少女』(地上波)
読書
『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』(深水黎一郎 講談社ノベルス)
『犯人に告ぐ』(雫井脩介 双葉社)
『螺鈿迷宮』(海堂尊 角川書店)
『恐怖の兜』(ヴィクトル・ペレーヴィン 角川書店)
『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』(小堺桂悦郎 フォレスト出版)
『赤い指』(東野圭吾 講談社)
『綿矢りさのしくみ』(小谷野敦、渡部直己、吉本謙次 太田出版)
『プラダを着た悪魔』(ローレン・ワイズバーガー 早川書房)
『名もなき毒』(宮部みゆき 幻冬舎)
『謎の彼女X』2巻(植芝理一 講談社)
テレビ
『必殺仕事人2007』
「電脳コイル」他
ライヴ
Quinka, with a Yawn@7thFLOOR
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ケータイ刑事シリーズ第一作の『ケータイ刑事銭形愛』が深夜再放送されているので録画。「青と白で水色」以来の宮アあおいのファンである以上見ないわけにいかない。(ファンだったら既に見てるでしょ、というのおいておく。)
『ケータイ刑事銭形愛』に、ケータイ刑事シリーズの基本は全部あって、しかも作りが丁寧だというのが第一印象。
シリーズの基本というのは、オープニングの「銭形愛、17歳。警視総監を祖父に持つ、現役女子高生にしてデカ。(中略)しかし彼女がデカであることは誰も知らない」というナレーション、ケータイに届く情報(「警視庁から入電中」)、「匂う悪の香り」(銭形姉妹によって少しずつ違う)と「謎が解けたよワトソン君」の決まり文句、そしてクライマックスには飛び道具(銭形愛の場合ケータイについた銭のストラップ)が飛んで犯人を捕まえ、決め台詞を言う(「愛の光で闇を打つ、あんたが悪事を隠しても、シッポとアンヨは見えてるよ。その名もケータイ刑事銭形愛。そこら辺のギャルと一緒にすると火傷するよ」)。
これからしばらく『ケータイ刑事銭形愛』を見るのが楽しみ。しかし朝食を摂りながら朝から何してるんだ、自分。
そういえば、同じBS-iだから合間に『0093 女王陛下の草刈正雄』の映画の宣伝が3回くらい入った。
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