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2007年6月前半
あらゆる雑務が月末、月初に集中するからである。夜には朦朧としてくる。普段から肩こりはあるが、朝には特にどうということなかったのに、肩こりが酷くなって、夜には頭痛がし始める。
飲んで帰宅。深夜、最近会っていない人が仕事を辞めたという話を聞いたので、電話で少し話す。
読書は相変わらず、『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)を読んでいる。1日数十ページのスローペース。
星新一が初めて書いた作品の話が出てきたが、まだ「新一」になる前の話。
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映画『ルネッサンス』のサイトが気がつかないうちにリニューアルしていた。まだ公開は7月とだけしかなくて、公開日は決定していないようだ。
映画館で観た予告ではモノクロームの未来都市がもの凄く美しくて、内容を全く知らなくても観たくなった。サイトを観るとアニメーションと書かれていて、CGなのだろうかなんなのだろうかと疑問に思っていた。
リニューアルしたサイトでは、「一つの誘拐事件が、人類の未来を変える。それは触れてはいけない聖域だった。」という惹句があったり、新しいトレイラーでは都市だけではなく人物も現れる。アメコミ風(但しモノクローム)の画風は、都市の映像ほどのショックはなかったが、スピード感溢れる動きの中で光と闇だけで表すモノクロームの人や物はとてつもなく美しくて十分に期待できる。早く観たい。
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朝昼兼帯の食事を摂りながら、録画しておいた「時効警察」を観る。今回の監督は誰なのかテロップをじっと見てたら、脚本・監督オダギリ・ジョーとでてきた。へえー。
そのあともだらだらと過ごすが、理由はただ一つ、休日なのに仕事をしなくてはならなくて、でもそれが嫌だから。しばらくだらだらして、ようやく諦めて仕事をする気になったのはもう夕方。さっさと切り上げて映画を観に行こうと思うが、途中睡魔に襲われ椅子に座ったまま意識を失ったりしながら結局21時までかかってしまい、映画には間に合わなかった。
『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)も読む。父親にして星製薬の社長星一の話が続いていたが、星一が死ぬと会社の負債を巡り星親一(星新一の本名)はかなり苦しい日々を送ることになる。
そこに突然矢野徹の話が出てくるが、以降日本でのSF黎明期の話が続く。懐かしい名前がたくさん出てきて、星新一の歴史はSFの歴史を抜きして語れないのだと知る。親一が「新一」となる部分で、二回もウッとこみ上げてくるものがあった。
SFの話になってから面白くて止まらない。止まらないけれど、都合もあって「ボッコちゃん」のエピソードのあたりで本を閉じる。
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6時起床。雑用とテレビ録画消化。昼は、柿の葉寿司と笹寿司を食べる。のんびりとして、少し読書。夕食後は突然の睡魔に小一時間昼寝。
『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)を読んでいると、星新一の作品を読みたくなる。
本棚から『ボッコちゃん』を引っ張り出してきて読む。
「おーい でてこーい」は衝撃的だったのでオチまで覚えていたが、読み返してみると、社が崩れて穴が出てきたなどというイントロを忘れていて新鮮だった。「ボッコちゃん」はタイトルは忘れようがないが、どんな話だったか思い出せずにいて、『星新一 一〇〇一話をつくった人』の作品紹介を読んで、そうだったと思い出す。それでも、実際の作品を読み返してみると、なるほどなぁとまた関心。
星新一の新潮文庫で出ているのはほとんど持っていたが、3年前に引越したときに、少しでも蔵書を減らそうと思ってもう読まないかもしれない星新一は捨てようかと思ったことを思い出した。結局捨てずに全部持っているのだが、読み返してみて持っていてよかったかなと思った。
今日中に読み終えようと思っていた『星新一 一〇〇一話をつくった人』であるが、脱線ばかりしていて読み終わらない気がしてきた。というか、日付的には既に読み終わっていない。
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録画で「プロポーズ大作戦」を1話から3話まで続けて見る。内容を知らなかったのだが、タイムマシンもの−−いやマシンは出てこないから、タイムリープものか−−だった。でも別にSFものというよりはシチュエーションコメディ。好きな女の子の結婚式で映される新郎新婦の想い出の写真を見る度に、妖精の力でその写真の過去に戻ってやり直せるというもの。1話で1回過去に戻るという1話完結のエピソード。
何で今頃見ているかというと、ドラマも見きれないので今まで溜め込んでいたのだ。もう見るのをやめて消そうかと思ったが、冒頭くらい見てみようと思った。ところが見てみるとタイムリープもの。それなら見ようかと思ったのだが、結局のところ単なるコメディなのだった。当初の予想通りといえばそうなのだが、タイムリープものだと思ったので、ちょっと期待してしまったのだが。
一つ気になるのは、どう現実が変わるのか。変わらないという結末もありだとは思うが、この流れだと普通最終回は主人公が好きな女の子と結婚する立場に現在が変わる結末だと思うのだが、その変わり方をどう見せるのかが気になる。
読書は、相変わらず『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)。
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特に何をしたというわけでもないのに、朝起きられない。躰がだるい。午前中は寝て回復を待つ。11時頃起きるが、まだだるいのは変わらない。図書館に行って本を借り、コンビニでパンを買ってきて、朝昼兼ねた食事にする。
読書は、相変わらず『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)を読む。いよいよ終わりに近づく。1001編を書き上げるエピソードでぐっと来る。特別に泣けるエピソードが書かれていたわけではない。それまでのいろいろな出来事を思うと、1001編目の作品ができあがったということ自体が重みのある出来事に感じられた。
夜、「セクシーボイスアンドロボ」の9話を見る。それまで1話完結だったのだが、今回は8話で前編、9話で後編と2話完結。どうもいつも今ひとつの感があったのだが、最近ニコ役の大後寿々花がいいなと思っている。今回のゲストに小林聡美が出ているのもいい。
録画の「プロポーズ大作戦」も4話を見る。なんとなく思ったが、ロールプレイングゲーム的な話だなと思った。ヒロインと結婚できればハッピーエンド、その間にいくつものステージがあって、1回目にうまくいかなかったのをもう1回やり直し。
青春ものにまとめているけど、たぶん設定は『バタフライ・エフェクト』から借りてきたんじゃないかと思う。日記を見ることで過去に戻る(『バタフライ・エフェクト』でも最後は映像で過去に戻ったけど)代わりに、写真を見て過去に戻るわけだけど。『バタフライ・エフェクト』では、過去を変えることで、現在に戻ってくると状況が大胆に変わっていくけれど、本当に変えたいことはなかなか変わらないために繰り返し過去に戻る。「プロポーズ大作戦」の方は、過去を変えてもあんまり現在には変わってくれなくて何度も過去に戻る。青春コメディで深刻さがないから、ゲーム的な印象を受けるのだろうか。
1話完結のドラマの設定として、結婚式のスライドの間に、タイムリープして過去をやり直してくる、1枚の写真につき1回だけやり直せる、という条件がパターン化させていると思う。『バタフライ・エフェクト』みたいにセンセーショナルな展開がそぐわないなら、『リプレイ』みたいに何度でもやり直す、さらに複雑になっていくみたいな話にすればよかったのにと思ってしまう。パターン化が狙いなのかもしれないけど。
ボルシチノートを全然更新していないので、前に読んだ本の引用でおざなりの更新。アンテナのメンテをしていて、1ヶ月更新のないサイトを外していたら、ボルシチノート自体がそのルールに引っかかりそうだったのに気づいたのだった。
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昨日日記を書いたあと、『星新一 一〇〇一話をつくった人』(最相 葉月 新潮社)を読み終えるつもりだったが、思ったより遅くなってしまい中断する。今日、最後の部分を読み、ようやっと読了。
「ボッコちゃん」が引用されたところで気になって、本棚から引っ張り出してきた『ボッコちゃん』(新潮文庫)から「ボッコちゃん」と「おーい でてこーい」、その他二、三読んだのだが、他の作品も読んでみようと思って、再読中。実に30年ぶりくらいの再読であるにも関わらず、そんな昔の作品という気がしないのは、『星新一 一〇〇一話をつくった人』に書かれていた通り、時代を感じさせないようにしていた結果なのだろう。
さて、感想を書こうと思うが、気になるところに貼った付箋が一杯になっている。ちょっと感想を書くのも一苦労なのではないかという気がしている。
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評判がいいので読んでみたのだが、いろんな意味で驚かされ、忘れていたことをいろいろと思い出させてくれた。
冒頭、星新一の死に至るまでの日常的なエピソードがいくつか書かれているのを読んで、紳士的で静かな印象(を勝手に抱いていた)だったのに、家族に対する素っ気ない態度に嫌な印象を受けた。作家っていうのは、こういうものなのかもしれない。そう思ったが、本を半ばまで読み進む頃には、そんな嫌な印象はなくなった。やっぱり星新一は(会ったこともないのに)すごい人だったんだと思った。
星新一の死の前後を書き記す序章に続くのは、星新一の父親星製薬社長の星一の結婚の話である。星一のエピソードを読むと、星一自体がバイタリティに溢れたすごい人で、星新一のような人が生まれるのはこういう父親がいたからなのだと思うくらいだった。ここでは星新一は、本名の親一として登場する。星一の死後、負債を抱えた社を受け継ぐ親一は、崩壊していく会社に集まる様々な人々や事件に翻弄され、苦労することになる。そして、どうにもならないところまできていた星製薬の立て直しのため、親一は社長の座を追われる。
この後、唐突に矢野徹とSFの話が出てくる。ここまでもつまらなくはなかったのだが、波瀾万丈な人生に興味を持つという程度だった。ところが、この矢野徹とSFの話以降、ぐんぐん面白くなっていく。日本のSFの黎明期の話が面白いし、出てくる名前が昔夢中になって読んだ作家の名前がオンパレードで出てくるのだ。だが、矢野徹とSFの話は最初もの凄く唐突に感じた。そして、そうだ、星新一ってショートショートの第一人者であると同時に、SF作家なのだと気がついた。まさに気がついたという感じで、星新一がSF作家だということはそれまで頭からスコンと抜けていた。
少し先の話となるが、星新一が『ボッコちゃん』の文庫化以降売れ始めた話が出てくる。その理由として、著者は読者の交替を上げている。SFの読者から一般の高校生、中学生へと急速に低年齢化していたというのだ。そのデータとして、昭和52年のある高校のアンケート結果が載せられているが、1年から3年まで一位は星新一なのである。
「都立千歳丘高校の高校生たちとほぼ同世代である私の実感からいうなら、星新一の本を好む彼らにSFを読んでいるという意識はあまりない。ただ、星新一を読んでいる。ただただおもしろいから星新一を読んでいる。みんなが読んでいるから自分も読む。だから星新一が流行っている。そんな状況だろう。」(p.410)
同世代の僕もほぼ同感で、SFだという意識なく読んでいたのだと思う。だが、星新一は日本のSFの黎明期に、重要な役割を果たしていたことを知る。星新一の歴史は、SFの歴史と重なっていて、それがもの凄く面白くなってきた理由だと思う。
星製薬の崩壊を背景に、親一は「星新一」として生まれ変わろうとする。その裏には、日本のSFを育てようとしていた矢野徹や江戸川乱歩までが関わっていた。
「こうして、親一が何も知らないところで、参謀総長・江戸川乱歩と仕掛け人・矢野徹による「作家・星新一」売り出し戦略がスタートする。」(p.209)
「星親一は、星新一となった。以後、本書では「新一」を用いることとする。」(p.218)
この「星新一」誕生を記す二カ所を読んだときには、唐突に泣きそうなくらいぐっときてしまった。星新一の誕生は、まだ全体の五分の二、このあとにまだまだ長い歴史が続く。この部分の内容を引用を含めて要約するのは難しい。あまりにいろいろなことがあるのだ。自分の読書歴の記憶にも絡まって、書かれていることに触発されて想い出も甦り、ただ面白いとしかいいようがない(面白いという言葉が適切かどうかはおいておいて)。
そのあと星新一の人生の終わり近く、「1001編目のショートショート」が書かれた辺りのエピソードで再びぐっと来た。特別なエピソードというよりは、星新一の「1001編」に共鳴した感動だと思う。
途中、「ボッコちゃん」が書かれた頃のエピソードが紹介されたところで、どうしても読みたくなって久々に、『ボッコちゃん』(新潮文庫)を本棚から発掘して、「ボッコちゃん」や「おーい でてこーい」、他に二、三の作品を読み返してみた。実に30年ぶりくらいの再読であるにも関わらず、そんな昔の作品という気がしなかった。今読んでも新鮮であるし、星新一の創作の精神を知った上で読むと、単なるオチの面白さだけでなくもっと深いものを感じた。さらに、星新一の生い立ちを知ったあとでは、ちょっとした部分に裏に隠れた意味も考えてしまったが、それは星新一の本意ではないだろう。
三年前に引越をするにあたって、星新一はもう読まないだろうから捨てようかと思ったこともあるが、捨てなくてよかったと思った。今一度、改めて読み返してみたいという気になったのだ。
新潮文庫から出ている星新一の作品は、ほとんど読んだと思っていたが本棚を探すと全部は見あたらなかった。どこかに紛れているのかもしれない。ただ、記憶では出ている文庫はすべて買って一通り読んだ後、その後は新刊が出てもいくらかマンネリな気がして、買わなくなった気がする。
「ところが不思議なことに、図書館にあったシリーズを全部読み終えてしまうと、ぱたりと関心を失った。あれほど熱中したのに、まるで憑き物が落ちたように読まなくなり、星新一から離れていった。」(p.559)
まさに、最相葉月のこの言葉と同じだった。だが、最相葉月は、再び星新一作品と出会い、『あのころの未来―星新一の預言』(最相葉月 新潮文庫)を著す。そしてさらに星新一本人に興味を持ち、『星新一 一〇〇一話をつくった人』を書くことになる。
『星新一 一〇〇一話をつくった人』は、知らなかった星新一像を教えてくれるだけでなく、記憶の片隅に追いやられて忘れていたことを思い出させてくれた。一話一話の意外な結末だけを求めて読み飛ばしていたであろう星新一の作品の数々を改めて読み返してみたいとと思う気にさせてくれた。実際、『ボッコちゃん』は、結局一冊読み返そうとしているし、他の作品もきっと読み返すことになりそうだ。
『星新一 一〇〇一話をつくった人』を読んでいなかったら、星新一の本は再び開くことなく捨てていたような気がする。星新一という人もすごかったけれど、その人物の生涯と創作の精神を教えくれ、さらに星新一の再読の機会を与えてくれた『星新一 一〇〇一話をつくった人』に感謝したい。
[ 『星新一 一〇〇一話をつくった人』 最相葉月 新潮社 ]
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どうも最近体調がよくない。
今日は、『ゆれる』(西川美和 ポプラ社)を読み始めるが、ほんの数ページ読んだだけで挫折。どうも本を読める状態ではない。
『ゆれる』は映画の原作だと思っていたが、監督自身が書いた映画の小説化のようだった。すると、観てから読むべきなのかもしれないと思った。
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『ゆれる』(西川美和 ポプラ社)を、最初から読み始める。語り手が変わりながら、一つの事件を語っていく。語り手が変わったところで、「藪の中」みたいと思いながら、ミステリアスな物語に引き込まれていく。
以前行きつけの蕎麦屋で愛飲していた出羽桜一耕を成城石井で見つけたので買ってきた。久々に飲むがやっぱりうまかった。一本しか見あたらなかったが、今日また覗いたらまだあったのでまた買ってこようか。あまり見かけないと思ったら、「少量生産ですので、品切れのときはご容赦ください」とラベルに書かれていた。やっぱり、買ってこよう。
夜、「時効警察」を観ていたら眠ってしまう。目を覚まして、眠る前に観ていたところから観直す。今のところ見かけないが、「時効警察」って金田一耕助のパロディではないのかと思っていたら、今日はマンホールの中から逆立ちの足が飛び出た佐清状態のシーンが出てきた。
WillcomからAdvanced/W-ZERO3[es]が発売される。無線LAN対応以外は機能的には大差なさそうだが、サイズが一回り小さくなって、画面とキーボードのキーが大きくなったりしている。
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西川美和監督の同名映画の監督自身による小説化である。てっきり、原作だと思っていたので(原作といえないこともないが)、まだ映画を観ていないので小説を先に読もうと思って読み始めてしまった。
どんな話か判らずに読み始める。第二章の語り手が変わったところで、語り手によって一つの事実が全く別の見え方をしてくる面白さに引き込まれていく。なんとなく「藪の中」みたいだと思った。そう思ったのは、章毎に語り手が変わり、異なる見え方をしてくるのだろうと思ったときなのか、もう少し進んでさらにそこに一人の死が出てきたときだったかはあやふやである。
小説も半ばにかかったところで、「藪の中」という言葉が登場するので、この物語自体か小説の書き方で「藪の中」を意識していたのかもしれない。
「藪の中」となっているのは、地元で親のガソリンスタンドで働く長男、田舎を嫌い父親と勘当同然で家を飛び出しカメラマンとなった弟、その二人が母の一周忌に再会したあとに起こる事件である。訳あって今はガソリンスタンドに勤めていた二人の幼なじみの女性を加え、三人で渓谷に行く。そこの吊り橋を兄とその女性が渡る途中で、女性が谷川に落ちて死亡する。果たして事故だったのか、殺意があったのか。その現場を弟は見ていなかったと言うが、本当に見ていなかったのか。
兄弟とまたその女性の屈折した思いの混ざる独白が、順番に事件を語っていく。「藪の中」は三人の会話だが、『ゆれる』は父親や裁判で弁護を引き受ける叔父、ガソリンスタンドの店員など事件の当事者以外の語りも入る。事件の三人については、死んだ女性の語りは死の前までしか語らないため、「藪の中」なのは兄弟の二人の気持ちと行為である。
事件の真相を巡って引き込まれて、一気に読んだけれど、それぞれの心理はむしろ繰り返し読んでみないと判らない。はっきりと書かれているわけではないが、何が起こったかはほぼ判る。だが、何故そうなったのかは、いろんな解釈が出来て、一つの答えに収まらない。繰り返し読み返したくなるのはそんな理由だ。
映画はこの事件をどう描いているのだろうか。まだ観ていないシーンをいろいろと思い浮かべてしまう。
[ 『ゆれる』 西川美和 ポプラ社 ]
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昨日から『ブロークン・エンジェル』(リチャード・モーガン アスペクト)を読み始める。冒頭からわくわくするが、じっくりゆっくりと読んでいる。
合間にパラパラ捲るようにして読み始めた『レバレッジ・リーディング』(本田直之 東洋経済新報社)はあっという間に読み終わってしまって、ちょっと気が抜けた。もう少し、特別な読書術のテクニックを書いている本を期待していた。
今日は朝から激しい雨が降ったり止んだりしている。跳ね上がり、屋根から瀧のように落ちてくる水、水たまりどころか池のように広がった水。家にいて出かけないで済む限り、激しい雨を見ているのは気持ちがいい。
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昼間、買い物のあと日記など書いていると、友人から電話。急遽、月見ル君想フでライヴにライヴを聴きに行くことになる。
「ピアノノチカラうたのちから」と題して、Ces Chiens(早川義夫/佐久間正英)+HONZI、鈴木亜紀、川上未映子×坂本弘道×清水一登の三組の出演。月見ル君想フに行くのは二度目、ライヴに行くのはものすごく久し振りだ。
最近、時間の決まっているライヴのようなイベントにいく気力がないのだ。行く、行かない以前の問題として、ライヴをチェックしていない。久し振りに聴くライヴはやっぱり愉しかったので、これを機会に再びライヴに足を運べるといいな。
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月見ル君想フで、「ピアノノチカラうたのちから」 Ces Chiens(早川義夫/佐久間正英)+HONZI、鈴木亜紀、川上未映子×坂本弘道×清水一登を聴く。
最初は、鈴木亜紀。グランドピアノを弾きながら歌う。初めて聴く人で、パワフルな歌声に南米っぽい感じもあったりする。歌詞が奇妙というかなんというか面白い。まあ、このあと最後まで聴いていて、今日の出演者はみんな歌詞がちょっと面白いとは思ったが、特に面白い。
途中早川義夫とも一緒に登場するヴァイオリンのHONZIがゲスト参加した。
続けて、川上未映子×坂本弘道×清水一登。今日の一番の目的。川上未映子も今回初めて聴くのだが、ちょっと想像していたのと違っていた。もっと静かで暗く不思議な感じを想像していたのだ。実際には通る声で明るめのメロディを歌う。不思議というのは想像とは違ったけど、不思議といえなくもないと思ったのは、歌い方。踊りながらというかステップを踏みながら、全身で動きながら歌うのだ。なんだかそれがとても不思議な感じがした。想像と違っていただけで、嫌いじゃない、むしろ好き。
未映子も良かったけど、久々に聴く清水一登も良かった。しかし、今日初めて聴いた坂本弘道がさらに良かった。楽器はチェロとなっていたけど、チェロというよりパーカッション、しかもエレクトロニック・パーカッションというか電気的に変換していろんな妙な音を出していて面白い。清水一登と二人の掛け合いで演奏したときなどは、前衛的な音楽になっていてすごく面白かった。
最後に、Chiens(早川義夫/佐久間正英)+HONZI。早川義夫を聴くのも久し振りだが、変わらないなぁと思いながら聴く。僕にとって早川義夫というと、Hi-Posiのカヴァーの「身体と歌だけの関係」なので、演らないかなぁと楽しみにしていたのだが、期待通り演ってくれた。が、聴いてさらに強力にパワーアップしてると思った。もう、Hi-Posiの原型を留めていないと思った。そこで変わらないと思っていたのは大間違いだったと気づいた。
きっといろいろ変わっているのだ。変わっていても、早川義夫らしいためにそう思わなかったのだろう。らしさを維持できるというのはすごいことかもしれない。
最後の一曲には、鈴木亜紀と川上未映子が再登場して、一緒に早川の曲を歌った。
[ ピアノノチカラうたのちから 月見ル君想フ ]
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長嶋有が『夕子ちゃんの近道』で第一回大江健三郎賞受賞を受賞したと聞いて、読んだ一冊である。長嶋有は芥川賞受賞作の『猛スピードで母は』のタイトルから思い浮かべるイメージがどうにも読みたい気にならず、今まで読まず嫌いできていた。興味を持って何を読もうかと思ったときに、やはり『猛スピードで母は』が気になったがどうしても読む気にならず、タイトルが呪文みたいだと思った『タンノイのエジンバラ』を手に取った。
「タンノイのエジンバラ」はもちろん呪文ではなく、音質の良さで有名なスピーカーの名前である。作品の中でスピーカーの名前だと出てきた時点で、ああなるほどと思った。音楽を聴くといったときに、昔は今よりも(今もあるのかもしれなけれど)アンプとかスピーカーとかオーディオ機器に拘る時代があった。こういうオーディオ機器の名前を聞くと、自分では凝っていなかったけれど、何となく記憶の端に残っていたりする。というのは余談であるが。
表題作「タンノイのエジンバラ」を読み終えて、『猛スピードで母は』から勝手にイメージしていたのとは全く違う、とても日常的でささやかな出来事の物語だった。面白いじゃないか、なんで読まなかったんだろうと思った。日常的なのだが、隣の女の子を突然預かることになったり、その女の子と一緒に誘拐の身代金要求の手紙を作ったりと何かちょっとずれた部分もある。
「夜のあぐら」はいきなり夜中に忍び込んで金庫を開けようとするところから始まる。だがこれもミステリでもなければ、犯罪にまで至らない物語で終わる。でも小説やテレビのミステリと違って、日常の事件なんていうものは、こんな風な日常のちょっとした延長で、ある線を踏み越えた途端に犯罪になってしまうのかもしれない。そういうギリギリの縁を人は生活しているのかもしれない。
そう思って次の作品を読むと、「バルセロナの印象」では失踪、「三十歳」では結婚詐欺という言葉が思い浮かぶ。
シンプルな物語で、話自体は違うのに、どれも作者の分身なのか似たような人物の、似たような人間関係の、似たようなエピソードで書かれている。螺旋のように違う話が微妙にズレながら重なっていく、そういう類似性が不思議と安心感を与えてくれる。人生って、小さなそういうものの積み重ねでしかないということなのかもしれない。
[ 『タンノイのエジンバラ』 (長嶋有 文春文庫) ]
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『ブロークン・エンジェル』(リチャード・モーガン アスペクト)読みはスローペース。
ヴァーチャル空間での描写とか面白くて刺激的である。例えば、ちょっとした会話として、ヴァーチャル空間にいるとリアル・タイムとの時間比率を変えて過ごすことが出来ることがでてくる。そうすると、ヴァーチャル空間でのいろいろな設定について想像を巡らして、ひとしきり楽しめてしまう。物語の設定そのものが面白いのだ。
しかし絶対的な睡眠時間が足りないのだろう。本を広げるとあっという間に睡魔が訪れる。面白くてもなお。
読書が停滞しているので、先月読んで感想を書いていなかった『タンノイのエジンバラ』の感想を書いた。続けて、溜まってる感想をアップできるといいのだが。
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きわめてシンプルな本である。どんな内容かは「はじめに」の文章を引用するのが早い。
「この行動科学の科学的データに基づき、いくつもの実験や検証がなされ、組織マネジメントとしてアメリカのADI社が開発した『行動科学マネジメント』を個人向けにしたものが、これから本書を通してご紹介する『続ける技術』なのです。」(p.5)
そこで紹介される「続ける技術」は、6章に渡って説明される。感想ではなくて、自分のメモとして、この「続ける技術」の要旨をまとめてみる。
第1章では、「続けられない様子」を、Aさんの英会話学習、Bさんのダイエットというように5つのエピソードで描いてみせる。誰にでも思い当たるような「続けられない様子」である。
第2章では「物事が続かない理由」を説明している。何かを続けることが出来ない理由は実は2つしかないという。すなわち、やり方がわからないか、やり方はわかっているが「継続の仕方」がわからない、という2つである。そして続かない理由は、たいていの場合後者の理由によるという。
つまり続かないのは、意志が弱いからでも才能がないからでもなく、方法を知らないからだというのだ。それと同時に、継続したい行動には二種類の行動があることを説明している。つまり、
・不足行動を増やす …英会話、整理整頓、日記など
・過剰行動を減らす …ダイエット、禁煙など
の二種類である。
これらをターゲット行動といい、それぞれの難しさや継続出来なくなる理由として以下のようにいっている。
・「不足行動を増やす」のが難しいのは、「すぐに成果を確認できない」。継続を阻害する行動「ライバル行動」はハードルが低い。
・「過剰行動を減らす」のが難しいのは、「快感やメリットがすぐに表れる」。ライバル行動が成立しにくい。
第3章では、本論である「続ける技術」の説明であるが、次のふたつが基本であり、そのスキルが「続ける技術」であるとする。
・ターゲット行動の発生をコントロールする。
・ターゲット行動の発生を邪魔するライバル行動の発生をコントロールする。
そのためにはどうしたらいいのか。ターゲット行動の発生を増やすには、3つのポイントがある。
・行動のヘルプ(補助)を作る
・動機付け条件を作る。
・行動のハードルを低くする。
反対に、ターゲット行動の発生を減らしたい場合は、行動のヘルプの削除、動機付け条件の削除、行動のハードルを高くするとなる。
第4章では、5つのステップでその進め方を説明している。
ステップ1 継続すべきかどうかを決定。本気で継続したいことなのかを確認する。
ステップ2 どの行動をターゲットにしたいか。合わせて、そのターゲット行動を増やしたいのか減らしたいのか。
ステップ3 ゴールを設定し、まわりに公開しよう。ゴールは、数値化された目的・目標とし、計測可能にする。そして、ラストゴールとスモールゴール(中間目標)を定める。スモールゴールはハイレベルにせず、目標達成可能な甘いゴールにするのがコツだという。他人の目に触れるところで公開することを推奨している。
ステップ4 メジャーメント(計測・測定)。日々のターゲット行動の増減を測定する。
ステップ5 チェック。ターゲット行動の増減をチェックすること。メジャーメントと違って、シビアな数値のチェックではなく、行動の増減の確認だけでよい。思わしい結果が出ていないならば、ターゲット行動の選択を誤っている可能性があるので、もう一度ステップ1からやり直す必要がある。
第5章では、続けるためのコツをいろいろ紹介している。
・行動コミットメント(契約書)を作る。具体的な時間帯や回数を指定するのが重要である。そして契約書には「ごほうび」と「ペナルティ」も記載する。
・フィードバック。大きめの紙でグラフを貼り出すなどする。そして結果でなく、プロセスに対して評価することが大切である。
・サポーターによる援助。家族や会社の同僚などで、気安く頼める人に伝える。
第6章では、第1章で登場した人々が、「続ける技術」で継続に成功しているエピソードが描かれる。ほとんどご都合主義のようなエピソードだが、具体的で判りやすいといえば判りやすい。
大体、『「続ける」技術』の内容は以上ですべてである。
結局続かないのは、続けようという気持ちが自分では本気で思っているつもりでも、そうではないからなのだなと思う。続かないのは、意志が弱いからではないとしても、「契約書」に明示するようなほど本気でやろうと思っていなければ続かないのも当然の話だろう。
書かれているのは当たり前のことなのだが、その当たり前のことをしていれば継続できるというのは非常に納得できる。
[ 『「続ける」技術 「今度こそ!」本気で目標達成したい人のための』 石田淳 フォレスト出版 ]
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今月少し忙しく、そのピークがまさに今週だった。とにかく今週さえ乗り切ってしまえば、来週以降は少しは楽になるだろうと思っていたのだが、一向に終わる気がしないと思っていたのが昨日のこと。今日、唐突に今週で終わることが決まった。あまりに突然で気が抜けた。
夜、先日成城石井で見つけた出羽桜一耕を飲みながらWebをアクセスしたりしてたのだが、気がついたらベッドで寝てた。
夜中に目を覚まし、おもむろに日記を書く。とりとめもなく。
昨日、「海老原友里」のサイトを見つけて思わず笑った。「蛯原友里」ではなく「海老原友里」。名前の似た別人ではなくて、モデルの「蛯原友里」のサイトで、一個人によるファンサイトとあるのだが、一部表記を間違えていたとかいうのではなく、すべて「海老原友里」なのである。「そりゃ君ファンじゃないだろう」、と思ったのだ。
しかしあとからふと気づいた。これはわざとなのか。つまり「蛯原友里」で検索しても検索結果の上位にはいるのは難しいが、「海老原友里」で上位に入るのは難しくない。というか近い語彙で検索していたときに、偶然見つけたのだ。サイトは、内容もファンサイト風な作りだけれど、別に最新情報をウォッチしているわけでもないし、アクセスを稼いでそこからアフィリエイト誘導が目的だったのだろうか。その割にあまり誘導も多いという印象がなかったのだが、あまりあからさまだと避けられることを意識しているのか。どれくらい効果があるのか興味深い。
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プロジェクトの終了が決まり、落ち着いた時間を過ごせる一日。それと別に今週末仕事場の引越があり、午後から不要な資料を廃棄したり始めて、夕方から荷物の梱包。
夜はほっとしたところで、仕事仲間と飲みに行く。終電で帰宅。結構飲んだので、シークァーサーを氷水でわってものを飲んで水分補給しながらWebをアクセス。すぐに眠くなってきたので、日記も書かずに寝る。
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芸能人の結婚なんて大した関心はないのだが、宮崎あおいの結婚にはあまりに現実感がなくて不思議と書いておきたくなった。
現実感がないのは、だっていつだってまだ少女だと思っていたから。去年公開の『初恋』だって三億円事件犯人の女子高生だし、『ただ、君を愛してる』は大学生になってたかもしれないけど、常に幼いイメージで、結婚ってイメージが湧かなかった。
結婚相手の高岡蒼甫って誰だかわからなかったが、Webで検索したら先日観た市川準監督の『あしたの私のつくり方』で文芸部顧問の先生を役であり、『パッチギ!』のアンソン役だった。対照的な役で、同じ人物とは気づかなかったが、そんな役者振りが宮崎あおいの相手というのはすごく頷ける。
宮崎あおいを意識して注目しはじめたのは、テレビドラマの「青と白で水色」(2001年)からなので、もう6年も経っている。そりゃ、少女も大人の女性になるわけだ。
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ちょっと忙しくしている間に「東京小説」乙桜学園祭がユーロスペースで2週間限定上映していて、ちょうど昨日で終わっていたことを知った。
桜井亜美と乙一がそれぞれ監督として映画を撮ったオムニバス映画らしい。桜井亜美は「人魚姫と王子」、乙一は「立体東京 3D-TOKYO」という作品を撮っている。ちなみに乙一は監督名としては乙一ではなく、足立寛高という名前を使っている。
乙一の熱心な読者ではないけれど、乙一が監督として映画を撮ったというとちょっと観てみたいではないか。しかも出演者に、泥棒/滝本竜彦(『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』)、男/佐藤友哉(『フリッカー式』)とかいるんだけど。
何でこれ話題になっていなかったんだろう。話題になっているのに、気づかなかっただけか? とほほ。
追記。あまりYou Tubeとか、リンク貼るの好きではないのだが、「東京小説 乙桜学園祭」の予告があったのでリンクしてみる。
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